Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

教誨師

教誨師である渡邉普相さんにインタビューして書かれたドキュメンタリーである。教誨師(きょうかいし)とは聞きなれない言葉だが、解説では教誨を次のよう説明している。

教誨とは、受刑者等が改善更正し、社会に復帰することを支援する仕事です。
(p.355)

但し死刑の教誨は特殊だということも書かれている。教誨師は死刑囚に対して唯一自由に面会することが許されているそうだ。つまり、死刑囚に対して教誨するのが仕事なのだ。社会に復帰することができない人間に対する教誨とはどのような意味を持つのか。先日紹介した「宇宙の戦士」では、病気で殺人を犯した人の精神状態が正常に戻ったところで「自殺する以外にどんな道が残されているだろう?」と考えるシーンがあるが、死と直面している人達の精神状態は極めて難しいはずだ。

いろんな死刑囚が出てくる。読み書きができないので勉強する人、最後まで恩赦を信じている人、別の殺人を告白する人、宗教問答をしてくる人。

死刑囚を見ていると、事件が悲惨であればあるほど、その犯人には気が小さい者が多いのは間違いないように渡邉には思えた。彼らは「殺す」ためよりもむしろ「逃げる」ために人を殺める。
(p.101)

個人的には、最近の事件だと新幹線の中で起こった殺人事件がそれに該当するのだろうかと思った。ただ、気が小さいというのは集団殺人事件には当てはまらないような気もする。例えばオウム真理教による事件がそうだ。集団心理や洗脳といった別の要素が加わってくるからである。オウム事件で死刑判決が出ていた7人が、本日処刑されたという。教誨師は7人とどのような会話をしていたのだろうか。

この本の中で渡邉さんは人を殺したと述懐している。これは、原爆を被爆したときに苦しんでいる人を助けずに逃げたことを「殺した」と言っているのだが、個人的にはそのような緊急時に他人の命まで構っている余裕がないのは当たり前だと思う。

二〇一一年の夏、普相は広島のテレビ局が被爆体験の作文を募集しているのを知り、鉛筆を手に取った。しかし、多くの人を見捨てて逃げたことだけは、どうしても書けなかったという。
(p.140)

それは一般の人でもやはり大問題ではないかと思うが、渡邉さんは教誨師なので、そのことがさらなる大問題になってしまうのだ。

教誨師が具体的にどんな会話をするのか、実例はこの本にたくさん出てくるが、基本は話すよりも聞くことだという。

幼い兒が他所で泣かされて歸って來ると、お母さんはその譚を尋ねる、すると、子供は始終を告げる。
(p.192)

これは渡邉さんの先輩の教誨師である篠田さんの手記。カウンセラーみたいな話だ。もちろん坊主っぽい話もたくさん出てくるから個人的にはそういう所が面白い。

人間はみな死刑囚だ。皆いつかは死ぬ。
(p.211)

その通りだ。だから今を精一杯生きろという。いつかは死ぬと理解した瞬間にやる気をなくす人もいる。やる気が出る人もいる。考え方はいくらでもある。死刑になるような犯罪者になるのは偶然だという。

本当に悪いやつは、人を殺して自分も死刑になんかなりません。だけど欲望や感情に色んな偶然が重なって一瞬にして火がついて爆発してしまう。その爆発を起こさんようにすることを考えんといけんのんですがね……。
(p.217)

最後に、お経は誰に向って読むのかという話を紹介しておきたい。

お経はね、今、生きている人たちのためのものなんです。
(p.222)

読んでいる人が悟りを開くためのものだという。死んでから救われてそれが何だ、といわれたらそれもそうかなと思う。個人的には最初からお経というのはそういうものだと思っていたからわざわざそう主張するのは意外だが、確かにお経は法事でよく読まれるから、仏様に対して読んでいるような感じもある。しかし仏様がそれを聞いているのかどうかは定かではない。


教誨師
堀川 惠子 著
講談社文庫
ISBN: 978-4062938679