Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

戦中派焼け跡日記

こういうのを纏めようというのがそもそも無謀だと思うのだが、今回は山田風太郎さんの戦中派焼け跡日記。時代的には、以前紹介した闇市日記の直前になる。

もちろん焼け跡というのは終戦直後を意味するから、戦争の話がてんこもりなのである。まずその種のネタから紹介してみよう。

唯、ソヴィエットに対する恨み、共産党に対する憎しみ、の語気は烈しい。
(昭和二十一年一月十日)

終戦直後の日本国民の心理がそうだったのか、山田さんが特にそうだったのかは分からないが、他の箇所ではこのようなことを書いている。

日本の農民が貧乏だといっても、ソ連軍ほどひどいボロ服は着ていない、まだあんなに無智低劣な軍隊も世界に類があるまい。略奪、暴行、放火、殺戮至らざるなく、いかなる将兵も、腕には日本人から奪った腕時計を皮膚の見えざるまでにまきつけ、何ぞといえばすぐにピストルをつきつける。一物を一尺動かすにも日本人を狩り出してこれをコキつかい、火のつくような酒をコップであおりながら放唱乱舞、日本人を殺してその血の海の中で日本娘を姦し、遺骨箱を踏みにじってその金歯を奪い、とにかく恐ろしく精力的な軍隊らしい。このソ連軍の去った後で支那軍や満鮮の民衆の掠奪が始まり、日本人は実に天地に身を容るるところがなかったという。
(昭和二十一年十一月二十七日)

ボロ服とまで言う恨みが尋常ではないが、物凄い敵意である。なぜか今のロシアは親日らしいのだが、今から数十年昔に、略奪、暴行、放火をしたということを知った上で親日を演じているのだろうか。そもそも、日本人が敗戦時にそのような扱いを受けたという事実は、日本の小学校や中学校で教えているのだろうか。

当時の日本は GHQ が完全に支配していた。もちろん、報道は検閲されていたから、連合軍側に都合の悪いことは一切報道されない。史実として記録に残っているものは当時の施政者に都合のいいものだけだから、それだけを参考にしては歴史を見誤る。

正しい歴史を知ることについて、山田氏は次のように指摘する。

大日本史』はともかくとして『記紀』や『外史』のウソの多いことは知っている。
(昭和二十一年三月六日)

山田氏は当時が歴史にどう残るかをとても心配しているのだ。

言論統制がされた時代において、真実が公式記録として残っているわけがない。最近のニュースで、戦後まもない頃の米軍兵による強姦の実態の話題があった。当時の報道にはそのようなことは一切出てこない。米軍の支配下なのだから当たり前である。報道や公文書を史実として解釈するとフィルターされた事実しか見えないが、しかし日記は残る。日記というのは歴史を知る上で重要な意味を持つのである。では今のようなインターネット時代はどうなのか。フェイクニュースが大量にあるようだが。

今もそうだと思うが、既に当時、日本の戦争は侵略戦争だという刷り込みが行われていたらしい。

侵略戦争反対者であったと公言する名士諸君!
諸君は、日本が本戦争に勝っていたら、首でも吊ったのであるか。
(昭和二十一年五月七日)

もちろん公言を始めたのは戦争が終わってからなので、首など吊るわけがないし、戦争に勝っていたら侵略戦争に賛成していたかもしれない。当時の中国、朝鮮半島の状況を考えれば、日本が参戦せず国内改革のみに留まっていれば大変面白いことになっていたはずなのだが、そもそも戦争を始めるには理由がある。そこを議論せずに侵略というのは判断以前の問題だ。

ここ数日、核開発がああだこうだというニュースがちらほらしているが、戦争に関しては、このような既述もある。

いよいよ「機械」が人間の手から離れて暴れ出した。人類はいつまで自ら発明した機械を制御できるだろう。
(昭和二十一年一月十五日)

これは原子爆弾のことを言っているのだが、コンピュータが普通にどこにでもあるモノになって、人類はそろそろ本当に機械を制御できない時代に突入しているのではないか。バグで核ミサイルが飛んでいく日が来なければいいのだが。

話を切り替えると、戦後まもなくといえば物資不足、配給の世界だ。これがまた興味深い。

配給の味噌は三日味噌汁造れば尽く、而して味噌そのものは自由に販売せられざるをもって、山菜の味噌漬としてその実山菜なるものは極少、唯その名目をもって味噌を売る也
(昭和二十一年七月十一日)

味噌を売るのは禁止されているが味噌漬けは自由に売れるので、具が殆どない味噌漬けにして売るのだという。こういうのは理屈とか型を重視する日本人的なやり方のようで面白い。しかし食料不足は大変だったようで、

名古屋附近の田舎もまた食料事情惨澹。ずっと腹のへり通しなりし由。夜六時頃より九時頃まで停電。
(昭和二十一年一月二十一日)

食い物がないし電気も止まる。今だと3時間も停電したら大騒ぎだが、日常的だと慣れるものだろうか。これは食い物ではないが、

二百五十個売り出しに二百七十番くらいに並んで、四十分以上も寒風中に立って遂に買えず。
(昭和二十一年二月十日)

ピースという煙草を買うために煙草屋に並んだ話。250個を売るのに270番に並んだら買えないのは当然だと思うが、はて、なぜ並んだのか?

電車も凄かったようで、乗れないという話は「闇市日記」の紹介のときにも書いたが、

音に名高き殺人電車東上線、電車も汚なけれど乗る人間更に汚なし。玉川線と雲泥の差也。窓、屋根に鈴のごとく人乗せて走る。
(昭和二十一年五月二十二日)

想像を絶しているわけだが、

つめろ、つめろと入口でわめく声、口論、喧嘩、その癖一旦中に入って位置を占めると入口でいかにわめいても恬然として動かない。何処の駅でも同じこの騒動が繰返される。
(昭和二十一年十二月八日)

このあたりは最近の都営地下鉄もだんだん近付いているような気もする。ただ、今の地下鉄で動かない人と当時の動かない人は何かが違うような気もする。

敗戦当時は日本は米人が支配した階級社会になっていた。そこに差別的な思想があったことは、

開戦後紐育に満ちたる、「ちびのジャップ奴、生意気な!」との声――これぞ本対戦の最大原因の一なり。
(昭和二十一年二月十五日)

このような記述が出てくる。紐育はニューヨーク。開戦の本質的な理由は外国人の日本蔑視だというのだが、そんなことは今の日本人なら誰でも知っている。それにしても日本蔑視の感覚はもちろん2018年の現在も続いているらしい。ただ、日本人は蔑視されているという感覚を忘れがちのような気がする。差別されることに慣れたのか。

米兵の横暴を描写した日記は、次のような記述があった。

どうせ乗るなら明朝の一番は大阪発だから、大阪まで逆行しておこうと、省線のフォームへ出たら進駐兵が三人ぐでんぐでんによっ払って、フォームの天井から下がっている「京都」だの「省線電車のりば」だののガラス板を飛び上がって、拳で割って廻っていた。ガチャンガチャンと凄じい音をたててフォームにくだけ散る破片――アッハッハッハッ! と獣のごとき進駐兵の笑い声――フォームの日本人にやにや弱々しい微笑浮かべて見るのみ、これをせめるものは愚か怒りの表情を浮かべている顔すらない。
(昭和二十一年十二月八日)

当たり前だが、誰も逆らわない。そんなことをしたら殺される。当時はこのような光景が普通に見られたのだろう。だから、次のような言葉も出てくる。

武力なくして、まさしく不幸なる武力なくして、世界の最高等国になり得ると考えるほど俺は甘くはない。
(昭和二十一年二月四日)

長くなりそうなので、一旦このあたりで切る。


戦中派焼け跡日記―昭和21年
山田 風太郎 著
小学館
ISBN: 978-4093873932