今日も「知的戦闘力を高める 独学の技法」から。独学というのは今ではインターネットも有力なソースだが、最先端を戦っている人でもない限り、やはり本は最も主流の情報源だろう。しかし、読書というのはただ本を読めばいいというものではない。
読書は、やり方によっては「バカ」になる危険性があるからです。
(p.65)
これはショーペンハウエルの指摘を紹介している。具体的には、
読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。
(p.65)
確かに読書で洗脳されてしまうのはどうかと思うが、世の中本当にそんなに単純だろうか。あくまで私見だが、正しく読解しない人なんていくらでもいそうな気がするのだ。さらには、誤読から新しい発見が始まることもある。解釈力において、哲学者のレベルと一般庶民のレベルは本質的に違うのである。とはいえ、
もっとも大事なのは「自分がいますでに持っているもの」を、どのようにして活用するかを考えることです。
(p.76)
これはその通りだろう。自分の得意分野で勝負するのは常識だ。ありがちな間違いは、時流に合わせたスキルを追い求めるというもの。何でもかんでも最新の知識を手に入れようとする。それは無駄にはならないかもしれないが、流行に乗るだけではアドバンテージを得ることはできない。
しかし、ではその「ない物」を一生懸命に努力して獲得したとしてどうなるかというと、せいぜい「人並み」にしかならないわけです。
(p.75)
それでは競争に勝てないのだ。誰でも取れるような資格は、何かの助けになる程度のことはあっても、切り札にはならない。
第2章は「生産性の高いインプットの技法」。要するに読み方の話である。小説の読み方については、このような指摘がある。
司馬遼太郎の小説の多くは超一流のエンターテインメントですが、同時にまた組織論やリーダーシップのケーススタディとしても読むことができます。
(p.90)
山岡宗八さんの徳川家康などの時代小説もそうだ。極限すれば、誰のどんな小説でも日常生活の教訓となりえる。ラノベですら教訓譚は結構多い。問題は何を読むかではなく、想像を拡張・展開して新しいルールを見つけ出し、実際の問題解決に使えるようにする能力があるかどうかだ。
昨日も「ざっくり」がいいと指摘したが、将来こうなると考えられるからこのような知識を得ておこう…というような発想は無駄だからヤメろという話が出てくる。
キャリアの8割は本人も予測しなかった偶発的な出来事によって形成されている
(p.95)
心理学者ジョン・クランボルツ氏の調査結果。
米デューク大学のキャシー・デビッドソンは「2011年度にアメリカの小学校に入学した子供の65%は、大学卒業時にいまは存在していない職業に就くだろう」と主張しています。
(p.96)
当時はYouTuber なんていませんでしたからね。つまり、未来予測なんてしても滅多に当たらないぞ、ということ。
ここで重要になるのが「何の役に立つのかよくわからないけれども、なんかある気がする」というグレーゾーンの直感です。これは人類学者のレヴィ・ストロースが言うところの「プリコラージュ」です。
(p.101)
プリコラージュというとカッコイイ印象があるかもしれない。どこかの都知事さんが使いそうな感じもするけど、「日曜大工」だという種明かしまで書いてあるから助かる。
「読書は短期目標でいい」という指摘を別の言葉で表現すれば、「無目的なインプットこそが大事」ということになります。なぜかというと「無目的なインプットをやってこなかった人は、肝心要の時期にアウトプットできなくなる」からです。
(p.105)
ま、ざっくりでいいからドンドン読んでいくのがいい。図書館が近くにあるのなら、新着図書みたいなのを手当たりしだいに読むのもいいと思う。ていうか、私はそういう選択もしている。このブログに何故この本が…というようなセレクトは、それである。
タイミング的にも、言われてから読んでいたら出遅れているだろう、ということで、
「インプットが必要になったとき」というのは、もう「舞台に立て」と言われているわけですから、そこで勉強をしているようでは、どうしても付け焼刃的な知識の表面的なインプットにならざるを得ません。
(p.108)
その意味でいえば、インターネットというのは最先端の情報を得る点でアドバンテージがあるといえるだろう。ただ、IT系の知識をgetしようとすると、どうしても英語が必要になってしまう。日本が最初というような情報はまだまだ少ない。
(つづく)
知的戦闘力を高める 独学の技法
山口 周 著
ダイヤモンド社
ISBN: 978-4478103395