日本には神道という独自の宗教もありますが、よく話題になる武士道というのは何なのでしょうか。それを外国人に伝えることを想定して書かれたのがこの本です。
だから原文は英語です。原文はインターネットで読むことができます(The Project Gutenberg eBook of Bushido, by Inazo NitobÉ, A.M., Ph.D..)。今回紹介するのは岩波文庫の矢内原忠雄氏による日本語訳なので、英語が読めなくても一応読めるでしょう。一応と付けたくなったのは、自動車を暴走させて一つ間違えば歩行者を殺しかねない動画を自分から YouTube に投稿するような今の日本の若者には、この本に書かれているような精神的規範は微塵も感じられないし、この本に書かれているようなことが理解できるわけがないだろうと思ったからです。
南総里見八犬伝という小説に出てくる八犬士は「仁義礼智忠信孝悌」の8つのマテリア、いや違った、玉を持っていますが、これが武士道においてはキーワード、ていうかシンボルみたいなものです。例えば、武士道の第五章は「仁・惻隠の心」、第三章は「義」、第六章は「礼」というタイトルが付いています。智は第十章「武士の教育および訓練」に書かれている内容が関連するでしょう。第九章が「忠義」、第七章の「誠」は原文では「VERACITY OR TRUTHFULNESS」となっており、信に通じます。
信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
(p.69)
日本人は形から入るといいますが、武士道の真髄は内面です。形だけでは意味をなさないのです。では何故誠実であるべきかというと、
正直は引き合うというのである。
(p.74)
というのが面白いですね。ヘンなところで打算的なようにも見えます。これも言いたいことはそのような表面的な話ではなくて、国民が皆正直で、相手を信頼できるような社会と、あるいは他人を騙してだしぬいてやろうという考え方が普通である社会と、どちらが望ましいのか。武士の出した答は「正直にしてよし」なのです。
とはいっても、武士道というのは所詮は武士の道、武士でない人達は一体武士道にどう縛られているのか、という疑問があります。しかも明治維新で武士は形式上消滅しています。刀を持つことが原則として禁止されたので、武士の魂がもてません。ちなみに刀の話は第十三章に出てきます。
刀の話が出たところで紹介しますと、やはり海外において異様で理解し難いのが切腹という儀式のようで、これに関して第十二章で細かい手順まで紹介した上で、
武士道は名誉の問題を含む死をもって、多くの複雑なる問題を解決する鍵として受け入れた。
(p.109)
と述べていますが、果たしてこれが諸外国の異文化をベースとする人達のみならず、今の日本人に伝わるのでしょうか。三島由紀夫に一言訊いてみたいものです。
残る孝悌は仁のサブクラスですが、
私は「孝」についての一章を加えることのできなかったことを遺憾に思う。これは「忠」と並んで日本道徳の車の両輪をなすものである。
(p.15)
このように増訂第十版に書いてあることからも、孝についての詳細は出てきません。
ネットの大学受験の掲示板を見ていると敗者の投稿に頻出する表現があります。即ち「いい大学に入って親孝行したかった」というのです。大学は自分のために行くところではないようです。もちろん親孝行というのは日本独特の文化ではなく、全世界に普遍的な発想ですが、入試で不合格になったことを孝行できないと嘆くというのは何か失われてしまった武士道の欠片が妙なところに残存しているような気がしないでもないのです。