名前位は誰でも知っている超有名な児童文学なのに、実は私はつい最近、初めて全訳を読んだのだ。ということで、こんなに有名だとストーリーを説明しても意味がなさそうだから、出てくるキャラクターの話をしたい。
この物語には、主人公のドロシーと飼い犬のトト、それにカカシ、ブリキの木こり、ライオンが登場し、ドロシーはこの3人(?)と旅をして魔女退治をすることになる。まるで桃太郎のようだが、桃太郎の家来と違うのは、キャラの設定である。
カカシはストーリーの中では知恵を出すキャラなのだが、自分では脳味噌がないから考えることができないと思っている。ブリキの木こりはとても優しいのに、心臓がないから心がないと思っている。ライオンは勇敢な行動をするのに、勇気がないと思っている。
この自己矛盾した設定が最後に予想通りにオチが付いて万歳、となるのだが、すると気になるのがドロシーの立ち位置だ。作者はドロシーには一体何を象徴させようとしているのだろうか?
もちろん、自分のいるべき場所に帰りたい、という明確な目標を持ってあちこち彷徨う、それを人生に見立てているというのは自然な発想だろう。最初から銀の靴を履いているという伏線は、メーテルリンクの「青い鳥」のように、何かを物語っている。
ところで、ドロシーはオズから魔女を殺せと要求されて、こんなことを言う。
「いままで何かを、殺す気で殺したことなんて一度もありません」
(p.98)
実際、ドロシーは話の最初の方で悪い魔女を1人殺している。たつまきで飛ばされた家が落ちてきて死んだのだから、殺したというのは語弊があるかもしれないが、ドロシーが「殺す気で殺した」という表現を使ったのは、殺す気はなかったけど結果的に殺してしまったことを「殺した」に含めてよいという意思表示だと思う。
その上で、ここで注目したいのは「殺す気で」というところだ。これは暗に、過失であれば仕方ないというような考え方をにおわせる。人生にはいろんなことがあるのだが、仕方ないよね、というようなクールな考え方だ。南の魔女に会いに行く途中で、瀬戸物の国を通る時に、牛の脚を折ってしまい、教会もうっかり壊してしまうのだが、
「悪いけど、しかたないわ」ドロシーは言った。「牛の脚一本と、教会一軒だけですんで、まあよかったわよね、みんなすごくもろいんだもの!」
(p.178)
これが個人的にはどうも気になって仕方ない。ほにゃららのためには仕方ない的な発想は、ある意味アメリカ的な思想であって、それがチラチラと見え隠れするような気がするのだ。
オズの魔法使い
ライマン・フランク・ボーム 著
柴田元幸 訳
角川文庫
ISBN978-4-04-100708-2