今日の本は「「文」とは何か」。
文法の話ということになっていますが、いろんなネタが入っていて、国語の授業でやるような文法とはかなり違っています。特に特徴的なのが第六章から。。チョムスキーの生成文法が出てきます。私がチョムスキーを習ったのは多分1980年代で、情報科学の形式言語のところで話題が出てきたような記憶があります。
生成文法では、文を基底の構造(深層構造)からの移動と変形で表向きの構造(表層構造)が出来上がると考えられるようになった。
(p.131)
このような説明が日本語の文法の説明に出てくるというのが面白いです。
なぜ日本語の場合、自分がコップを割ったとしても「コップが割れた」と言いやすいのだろうか。これは、認知のモードが関係していると考えられる。私の主観では、私自身は見えない。目の前に映っているのは、コップであり、私自身ではない。よって、コップにだけ焦点を当てた表現を使いやすい。
(p.155)
個人的には、日本語は相対アドレスを使った言語という印象を持っています。英語などは絶対アドレスです。コップが割れたという表現において視点(ポインタ)はコップを指しています。そこが基点で、世界の中心になっているのです。他の諸々は、そこからの相対的な場所にあります。
この現象の典型的な例は「おとうさん」です。家庭の中で子供が生まれたら、父親は母親からも「おとうさん」と呼ばれます。英語では妻が夫を father と呼ぶことはありません。日本語は子供が生まれた瞬間に視点(基点)を子供に変化させるので、子供以外の人からも夫は「おとうさん」というステータスになります。
この日本語の特徴は「は」という助詞にあります。「が」という助詞は格助詞の一種であり、主格を表します。「は」は格助詞ではなく副助詞として扱われています。~は、という時の「~」は主格ではないことになりますが、主題として扱われることになります。
日本語は主語よりもこの主題が発達している言語だ。このため、「主題卓越型言語」と呼ばれている。
(p.98)
年越しにうどんは食べない、の「は」は「を」に置換することが可能です。「を」は目的格を表現していて、主格ではありません。うどんを食べるのは人であって、それが主なのです。
さらに、無助詞を使う文が存在します。ウナギ文と呼ばれているそうです。ウナギ屋で注文するときに何と言うか、という話です。ウナギ屋で注文したらウナギに決まっているだろ、というのはおいといて、この3種類。
俺、ウナギ。
俺はウナギ。
俺がウナギ。
(p.99)
ここのポイントは、「俺、ウナギ」の意味が「俺はウナギ」でも「俺がウナギ」でもないという所にあります。
「俺はウナギ」の「は」には、他の人が違うのを頼んでいるという背景があって、その上で俺はそれではなくウナギ、と主張するようなニュアンスがあります。しかし「俺、ウナギ」にはそのニュアンスが全くありません。だから、「俺、ウナギ」は助詞の「は」が省略された文と同等ではない、ということになります。無助詞という助詞があるというのは今まで知りませんでした。
今日の一言は、あまり深くない話ですが、コレで。
最近では、「違った」の代わりに「違かった」という言葉も使われるようになっている。
(p.161)
ネットを見ていると、違わないことを、違くない、と表現する若者も結構いますね。
「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし
橋本陽介 著
光文社新書
ISBN: 978-4334044886