Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起 (2)

今日は昨日の続きから。大学で何を教えているのか、について。

結局、僕たちは明示されたカリキュラムを教えるだけじゃなくて、読ませて書かせるトレーニングを通じて、アーギュメントができる能力を育てているんです。
(p.66)

argument は日本語の「議論」だとしっくりこないのであえて翻訳しないという。この本にはクリティカル・シンキングという言葉とも比較している。

大学は勉強するところではなく学問するところ、という認識が建前としてあると思うのだが、現実はそうでもないらしく、このアーギュメントというのがなかなかうまく行かないらしい。なぜか。

要するに、日本の大学は学生に真面目に勉強させるような構造になっていないんです。
(p.63)

これが日本の大学に対する一般論ではなく、あくまでトップユニバーシティーにおいてそうではない、という主張であることに注意が必要である。そのような上位の大学ですら、

昨今では、自分のアイデアや調べたこと、意見にそれなりにデータを添えてまとめていくのが研究だと勘違いしている学生がけっこういます。小中学生の学習レポートならばそれでいいかもしれませんが、大学や大学院での研究は、そうした「まとめ学習」とは根本的に違います。
(pp.73-74)

といった現象がみられるというのだ。ただし、まとめ学習になってしまう理由としては、大学の単位取得のシステムにも問題があると指摘する。

学生たちは,細切れにされたバラバラな科目を、いわばスーパーマーケットで商品を選ぶ時のように、自分の予定が空いている曜日・時限を埋める仕方で選択していくことになる。このようなやり方では、深い学びなど絶対に実現しません。
(p.76)

2単位のような短いコマで区切ってしまっては、深い学びを実現することができない。4単位、8単位というような長い時間を使って一つのことに深く関わらせることで、この問題に対応できると提案しているのだが、日本は一点豪華主義よりも広く浅く、何でも少し知っているという育て方を好むようで、なかなかそうはならないようだ。実際、ネットに出てくる受験生の意見を見る限りでは、一般入試が偉くて、AOは下に見るような風潮がある。

いま、日本は同世代の半数以上が大学に進学するという、全入時代になっている。それが優れた学生が増えた状態ならいいのだが、現実はそうではなく、勉強しない、できない学生が大学に入れるようになり、大量に増えてしまっているのだ。トップではないユニバーシティーが大量に存在していることになる。そこでは一体どのような講義が行われているのか。

ネットで最近見かけた質問だが、ネットで調べた内容をコピペして作ったレポートを提出したら0点になってしまった、どうすればよかったのか、というのがあった。この場合、意見にデータを添えるどころではなく、データがコピペされただけで意見が存在していないのだ。

大学入試改革の眼玉として、共通テストで記述式の問題を出すという話になっていた。なぜか頓挫しているようだが、これはそもそも、日本の子供たちの記述力が諸外国より劣っているという結果に対応しようとしたのだ。マーク式の試験だけに対応した受験勉強が記述力の低下にどの程度影響しているのかは分からないが、共通テストの記述式問題というのは、想像以上に重い意味を持っているのではないかと思う。

(つづく)


大学はもう死んでいる? トップユニバーシティーからの問題提起
集英社新書
苅谷 剛彦 著
吉見 俊哉 著
ISBN: 978-4087211061