今日選んだ本は「ウロボロス」。ファンタジーの古典と呼ばれています。1922 年の作品です。ちなみにファンタジーのレジェンド「指輪物語」は1954~1955年に発表されています。
修羅国(デモンランド)の王、ジャスと、魔女国(ウイッチランド)の王、ゴライス十一世、ゴライス十二世との戦いをロングストーリーで描いています。それも今時のラノベと違って小さな活字で600ページを超える結構な長編です。
ストーリーとしては戦国時代、例えば織田信長や徳川家康のような合戦物に類似しています。最初はレシンガムという男が不思議な世界を見る、という設定になっています。
彼女にとって、この世には、呪われた悪魔か、天使かのどちらかしかなく、その中間は一歳存在しない。しかし、わたしは彼女の歌に踊らされはしないぞ、
(p.43)
読んでいるうちにレシンガムは出てこなくなり、キャラが勝手に行動するようになります。そこは普通のファンタジーですね。
途中全部すっ飛ばしますが、エンディングが驚きです。あえて伏せておきますが、このオチでいいのか、という疑問もありますが、「それは新たなる戦いの始まりに過ぎない」という格言(?)もあるのだし、普遍的な法則なのでしょう。
逸話として出てくる、侯爵が魔法で作った人形の話を紹介します。
ところがこの侯爵は、愚かで欲の深い人だったので、この人形に、一年の四季とその四季のいいものを一度に持って来させ、また地上のいいものをすべて一度に持って来させたの。そうしたら、六ヵ月で、そのいいものに飽きてしまい、もう希望したり欲しがったりするものが何も残っていなかったわけね。うんざりして、侯爵は首を吊ってしまったのよ。
(p.588)
こういう話は、人生とは何ぞや、という哲学的な匂いがします。ある意味、禅的でもあります。禅といえば、解説にも、こんなことが書いてあります。
物語の物語たるところは、それが絵空事であることにある。絵空事と地球の現実とどちらが実在かというのは、実はそんなに簡単に解ける問題ではない。
(p.699)
実際、人間が脳内にイメージしているものは、例えば視覚を経由した画像・動画のイメージを元にしているので、対象の物体そのものではなく外面しか取り込んでいないわけです。それが本を読んで想像しているモノとどれ位違うのか。
作者のエディスンさんは機械文明に反感を持っていたようです。
そういう人間の崇高さを何にまして称える人だったエディスンは、機械文明のもたらした粗暴な便益など軽蔑こそすれ、少しもありがたいとは思わなかった。それに彼は、機械が崇高になりうる人間を低劣な生き物に変えることを看破していた。
(p.700)
今だと反IT主義者みたいなものでしょうか。AIとか出てくると、話はさらに錯綜しそうです。もっとも、反AIは古典的SFのテーマでもありますが。