Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

闇の左手

某国では、教育法を改正(?)して愛国心を教えるようにしようとか否とかいう話題で政府や教育関係者だけで少し盛り上がったような気もするのだが、国民はそういうことより議員宿舎ノロウィルスやいじめ問題に気をとられてそれどころではない。先の大戦前とは時代も思想も根底から変わった。そもそも愛国心とは何なのか考えたこともない人が増えたのではないかと思うが、偏った愛国心を刷り込まれるよりはマシか。ていうか、何だ、愛国心というのは?

「いや、愛ではありません、わたしの言う愛国心とは。恐怖です。他者への恐怖です。」
(p.31)

そしてそれは憎悪、紛争、侵略だ、というセリフが続く。ソレはそもそも国という概念があり枠がなければ発生し得ない感情である。共通の敵がいれば集団はうまくまとまる、というのは社会学では基本原理の一つではないのか。そう考えれば、その国以外の誰かに対する憎悪の裏返しという解釈をするにも激しく頷けるというものだ。ではその先にあるビジョンは一体何なのか?

「汝の隣人を愛せよ」。クリスマスだからという訳ではないが、もちろんこれは聖書に出てくる有名な言葉だが、そのためにはもちろん仮に「隣人」そのものが絶滅していようとも「隣人」という概念にマッチする何等かの存在が必須なのだ。キリスト教は、愛国心だけではなく「愛他国心も持て」と教えたいのかもしれない。しかして、現実はどうであるか。そこで、ここ数年にキリスト教国が戦争で殺した異国人の人数は一体どれ位になるのか知りたいと思ったのだが、これだけWebで何でも見つかりそうな時代に、それがどうしても分からない。大いなる神の意志というのは、こんな所にも生きていて、人間は髪の毛一本すら自由にはできないのである。

もちろん、クリスチャンの皆様方が「戦争しているような国はキリスト教国ではない」と言うのは分かっているし、最もスゴイ解釈の一つとして「敵は隣人どころか人間ですらないから殺してもいいのだ」という極論から「だから戦争してもいい」という結論を導き出せるということも知っている。

さて、この本の話を。ゲド戦記(原作)が有名な大作であることは間違いないが、「闇の左手」も、アーシュラ・K・ル・グィンの作品で最も有名な作品の中の一つである。失踪日記で最近マイナーの帝王に復活した吾妻ひでお氏が、確か、不条理日記の中で、クロスカウンターを決めてしまって二人とも雪原で倒れてしまうシーンを書いている。ソレがコレである。クロスカウンターはさておき、後半の雪原を強行する描写はまさに読みどころだから、もし読むのなら前半で挫折しないで、せめてそのあたりまで読んだ方がいいと思う。

物語は両性具有の人々が住むゲセンという惑星を舞台にしている。この物語の主人公は紛れもなくゲンリー・アイという地球タイプの男性だが、もう一人の絶対的主要人物がエストラーベンだ。エストラーベンの思想、あるいはル・グィンエストラーベンを使って語ろうとしたそれを理解することは難しく、そこに共感しながら読もうとすると破綻しそうな気がする。ただ、そのちょっとした壁を越えてしまうと一気に読める作品でもある。SFの世界で間違いなく名作とされている作品なのだが、私見としてはSFというよりファンタジー的な要素が非常に強いと思う。何度か出てくる挿話にもそのような雰囲気を強める効果があるのだろう。ファンタジー好きな人であれば抵抗感は少ないだろう。

もしこの作品が簡単だという人がいたなら、例えばエストラーベンをどのような人物として読んだのかを問いたい。作中の人物は男性でも女性でもない。だから、この作品を読むときに、男性と想定しても女性と想定してもいけない。それだけでも大変難しいというか、普通に読んだら例えばエストラーベンは男性だと想定してしまうとか、そのような先入観から避けられないような気がする。狂気のような世界。

理解することが難しいと考えていることを説明するのは大変なことだ。描かれている世界の中でのエストラーベンの風変わりな思想がこの作品を難解にしているかもしれないが、少なくともこの「闇の左手」に出てくる世界では、戦争のために絶対必要な条件の一つは、まず何よりも「愛国心」なのだ。

そしてまたエストラーベンが言っていたように愛国心を高揚させるのではあるまいか。 もしそうなれば、ゲセンもいよいよ戦争をする条件がみたされるようになるだろう。
(p.68)

残念ながらこれは普遍的な法則だと思う。だからといって愛国心がいけないという訳ではないので念の為。新しいアイテムを持った瞬間に欠点も増えるというのはよくあることなのだ。そもそも身近に具体的に在るモノに対して、好きだとか、気に入るとか、面白いとか、そのような感情を抱くという仕組みは割と分かりやすい。極論すれば、それが自分にとって何等かのメリットをもたらすものは、そのような感情を抱く対象になるわけだ。では、何かあったときに近所だとか、町ぐるみで応援するというのはどういうプロセスによるのか。「町の中の人たちは仲間だ」という集合体的意識で説明することは一応できる。近隣のトクがお互いにメリットになりやすいというのも事実だ。ただ、問題はその境界線なのだ。

県だとどうなのか。国だとどうだ、アジアだとどうだ、地球という単位ならどうなのだ。私見ではあるが、人類は地球上にいるのだから仲間だ、というようなグローバルな発想を持っている人は極端に少ないような気がする。もちろん、個々の単位としての仲間は世界中に存在するかもしれない。日本人だからといってアラスカやスペインにも友達がいる人はいくらでもいる。しかし、それは個体のヒトという対象があるからそうできるのだ。そもそも、町や県、国、といったような抽象化された集合体に対してそのような感情を持てるのか。仮にそれが持てたとして、本来そうであった姿を超えた「他者への恐怖」に向かうのではないか。そうなると「他の国を出し抜こうとする」ような副作用が前面に出てきてしまう。かといって、本当に他の国もひっくるめて面倒を見ようとしたら、もうその時点で愛国心という言葉とは別のモノになってしまう。

そもそも、エストラーベンは軽々と「国家を愛したり憎んだりすることができますか?」と言い放つ。

国を愛するとはいったいどういうことだろうか? 国でないものを憎むということだろうか? …(略)… わたしは人生を愛する限りエストレ領の山々を愛するが、この愛には憎悪の境界線はない。
(p.257)

この境界というのが、どこまでを憎悪の対象にし、どこからそうでなくなるか、というものであれば、思想自体に既にかなりの危機が内包されているのである。ちなみにエストラーベンは国家から叛逆罪で追放されてしまう役なのだが、この物語を通じて愛国心(がもし存在するなら)という所に最も近いところに立っているような気がするのが面白い。さらに、施政者が最もそういう精神に欠けているというのは宇宙的にもよくあることなのだろう。

物語の中で、食事のシーンが何度か出てくる。いきなり見ず知らずの家を訪ねるのだ。訪問された側は、それが誰であれ歓迎しなければならない。日本だと渡世人に対してメシを食わせるという風習があったのを思い出すが、あれは「メシを食わせる」というよりはむしろ何日かメシを食わせたら責任は果たしたということで追い出してもいい、というようなルールだったと思う。

この作品中には、無知であると自称するのが最高の自画自賛になるとか、東洋風の風習がいくつも感じられる。 食事中には仕事の話をしてはいけない、というのはちょっと違うかもしれないが。

そういえば、分かりやすい言葉がここにある。もし貴方に愛国心があるかどうかを判定したければ、やはりエストラーベンの語った言葉、次の指針に沿ってちょっと考えてみればよいのではないか。

「悪い政府を憎まないのは愚か者です」
(p.257)

冒頭で紹介した国が法改正で国民に刷り込みたい「愛国心」とこれが指しているソレとは恐ろしく解釈が違っているのかもしれないが、国民視点から考えた愛国心というのは要するにそういうことに近いものになるだろう。日本人はそういう心構えから長い間遠ざかっていたが、もしかしたら、日本にもそのうち他の国と同じように愛国心に溢れる人たちが増えてクーデターが発生するようになるのかもしれない。

(引用箇所のページ表記は1978年9月30日発行、1995年3月31日二十刷の版による)

 

(本稿は Phinloda の裏の裏ページ「書評:闇の左手」() からの転載です)


闇の左手
アーシュラ・K・ル・グィン
Ursula K. Le Guin 原著
小尾 芙佐 翻訳
ハヤカワ文庫 SF (252)
ISBN: 978-4150102524