Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

菜根譚 (5)

今日は菜根譚から、「人生の禍福は自心の所産」を紹介する。

人生福境禍区、皆念想造成。故釈氏云、利欲熾然、即是火坑、貪愛沈溺、便為苦海。一念清浄、烈焔成池、一念警覚、船登彼岸。念頭稍異、境界頓殊。可不慎哉。
(p.390)

受験掲示板のFAQに、○○大学に入れば幸せになれますか、というのがある。この種の質問には「幸せかどうかは、あなたが幸せだと思うかどうかだけで100%決まる」と答えている。幸せかどうかは本人がそう判断するかどうかで決まるのであって、客観的に幸せな状態が存在するわけではない。

最初の文の現代語訳。

人の一生の幸不幸の境涯の区別は、すべてその人自身の心が作り出したものである。
(p.390)

福境禍区というのは、ここからが幸福だという境目や、これは禍(わざわい)だという区別、ということだ。それが皆、念想が造成したものだというのである。脳科学的にいえば、大脳がそのような判断をしたわけだ。

「烈焔成池」は、激しい炎が(冷たい)池になる、心頭滅却すれば火もまた涼し、である。確かに熱いという感覚も大脳にがそう判断した結果であるから、絵空事とも言い切れない。しかし火は物理的に熱いわけで、熱いものは熱い(笑)。池の中にいると思っていても焼けてしまう。それを涼しいと言い切るには壮絶な思考のコントロールが必要になる。

「念頭稍異」の「稍」は僅かなこと。少し考え方を変えるだけで、幸せは不幸になり、不幸は幸せになる。この項では「慎め」というが、幸福も不幸もその程度のものだ、拘る必要はないではないか、というのが本来の言いたいことのような気もする。

お茶をテーブルにこぼしてしまう。拭かないといけない。これを、どうやって拭こうかと悩む人は不幸で、こう拭くとよさそうだと考えるのは幸福だ。不幸と幸福はその程度の違いしかない。どうすれば幸福になれるかなどと考えて悩むのは時間の無駄なのだ。


菜根譚
講談社学術文庫
中村 璋八 翻訳
石川 力山 翻訳
ISBN: 978-4061587427