Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

菜根譚 (1)

書店が閉店になってしまったし、図書館も完全閉鎖だし、なかなか本を仕入れることが難しくなってきた。kindle があるじゃないか、という天の声が聞こえてきたような気がしたが無視するとして、これでは紹介する本も尽きるという気がしつつ、最近毎日ちょろちょろ読んでいる「菜根譚」から紹介してみようと思う。

菜根譚の著者は、洪自誠さん。

彼の言葉には儒仏道三教が混然としており、その思想を正しく理解するためには、この儒教、仏教、道教の十分な知識が必要となってくる。
(p.4、「まえがき」)

内容は教訓話。一つ紹介する。「7 淡々として平凡に生きる」というタイトルが付いている。

醲肥辛甘非真味。 真味只是淡。 神奇卓異非至人。 至人只是常。
(p.36)

本には返り点が打ってある。また、読み下し文と、現代語訳が付いてくるから、漢文が読めなくてもだいたいわかる。先の内容に関しては、

味の濃厚な美酒美肉や、辛いものや甘いものは、ほんとうの味ではなく、ほんとうの味は、ただ淡泊なだけの味である。
 これと同じように、すぐれた人や他に抜きん出た人は、ほんとうに道ををわめた人ではなく、ほんとうの至人は、ただことさらでない平凡なだけの人である。
(p.37)

漢文や古文を高校で学ぶ理由は何かという質問がよくあるのだが、もちろん漢文や古文を読めるようにするためだ。何を読むかというと、もしかすると菜根譚のような文を読んで欲しいのだろう。という話をすれば、わざわざ漢文や古文を読まなくても、現代語訳でいいのではないか、という疑問も当然出てくる。

先に紹介した箇所が、いい例になっている。オリジナルと翻訳は違うのだ。原文の「真味只是淡」(しんみただこれたん)、対になる「至人只是常」(しじんただこれつね)の迫力と、「只是」という表現のもつ明快なストレートさが現代語訳で表現することが難しいのだ。「ただ」と書くと味わいも半減する。AはBに非ず。Bは只是C。A'はB'に非ず。B'は只是C'。この対称性も説得力があって、何と何が比較されているのか一目瞭然だ。特に後半は、至人をまず「ほんとうに道をきわめた人」と表現してしまったために、その後同じ語を繰り返すのを避けて至人という表現を使うという工夫をしているが、長々しい表現が現文では「至」という一字で表現されているのが凄まじいと思うのである。

(続く)

菜根譚
講談社学術文庫
中村 璋八 翻訳
石川 力山 翻訳
ISBN: 978-4061587427