Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

南京慟哭

今日紹介するのは「南京慟哭」。

南京事件を実際に体験した中国人による小説。小説とはいっても、実際の体験がかなり使われていると思われる戦闘シーンは壮絶にリアルである。

玉龍はまた怯えてしまった。そして辺りをもう一度よく見まわしてみた。よく見てみると、この人の言うとおり、切断された血まみれの足が草地に転がっていたのだ。
(p.49)

玉龍は血が苦手な仏教徒だ。説得されて、爆撃を受けた建物に救出に行って、足を失った人を見付けるシーン。このような場面はリアルに日常的だったらしい。

日本がやっている戦争の目標は中国の民衆ばかりで、軍隊ではないんだ――
(p.64)

これが爆撃された市民の言葉なのだ。もちろん目標は軍隊だろうが、実際に巻き添えになる市民としては当然の感情だろう。

これから、市民のものは何一つ、草や髪の毛一本だって、道に落ちている金であっても絶対に持っていちゃいかんぞ。中国兵というのはこうでなければいけないんだ。
(p.101)

袁唐(ユエンタン)が、民家から物品を盗んでいる兵士を見付けて叱責するシーン。その民家はこれから焼き捨てることになっていたので、兵士は「焼いてしまうものなら持っていたって構わない」と判断したのだ。そう言われて、袁唐は自分の判断が間違っているのではないかと迷うが、結論として、先のように言って見逃すことにする。

後半に多数出てくる戦闘シーンは具体的で説得力のある内容と、心理的な葛藤が細かく描写されているあたりが興味深い。

「どのくらいある?」
張涵(チャンハン)は、つまらなさそうに聞き続けた。
「五百発です」
「足りるのか?」
「言うまでもなく、どう考えてみても足りません」

答えているのは部下の王煜英(ワンユイイン)。機関銃兵。日本軍の戦車が攻撃しに来るというので、鋼心弾が何発あるかと問うたのである。南京を守る中国の部隊が物資に不足していたことがわかる。結局、圧倒的に戦力で劣るため耐えきれず、逃げ出すことになるのだが、

誰かが丸太と縄でいかだを組み、そのうえに乗りこんだ。するとまた人々はこのいかだに殺到した。
先に乗った者は後の者を蹴落とし、後から来た者は先の者を引きずり降ろす。
(p.179)

地獄絵図である。現実のバトルシーンはそういうものなのだ。

厳龍が見たものがある。何なのだろう。

ふと見上げると大きな木の枝に外套のようなものが何枚か掛っている。ぼんやりとしてよく見えないが、八枚はあるようだ。不思議に思って近づいてみると、それは日本兵の首吊り死体だった。それもどうやら自殺のように見えた。
(p.209)

それが何故なのかは描かれていないのだが、このようなシーンをわざわざ想像して書く必然性はないから、実際に見たのだろう。しかし、なぜ当時の状況で日本兵が自殺しなければいけないのかは、分からない。

日本は重大な矛盾をその内部に抱えているがゆえに、必ず敗れるということが、このときはっきりわかった。
(p.210)

このように書かれているが。その矛盾が何かも分からない。

訳者解説には、次のような記述がある。

この小説には中国共産党が一度も現れない。だがこれは戦史において、まぎれもない事実であった。歴史学者黄仁宇は最近出版された著書「中国マクロヒストリー」(一九九四・四、東方書店)の中で、中日戦争二千百万の中国人犠牲者のうち、その三分の二以上は国民党軍とその統治下の民間人であり、抵抗の歴史から国民党の力を消すのは妥当でないという指摘をしている。
(p.228)

中国には出版の自由はない。完全な情報コントロール下にある。そこからこのような本が出てくるのは、ある意味驚きである。


南京慟哭
阿壟 著, 原著
関根 謙 翻訳
五月書房
ISBN: 978-4772702188