今日は葉隠入門を少し読みました。今更ですが、もしかしたら葉隠そのものを説明しないと話が通じないのかと心配になってきました。葉隠は戦争に行った人達が戦地に持って行って読んだという伝説が有名ですが、今は平和なので流行らないのかな、という気がするわけです。
戦争中の「葉隠」は、いわば光の中に置かれた発光体であったが、それがほんとうに光を放つのは闇の中だったのである。
(p.9)
これはこの本のプロローグの部分に書かれているのですが、三島さんは戦後の日本は闇の中だと言っているわけです。これは面白い。
三島さんいわく、葉隠には三つの哲学が述べられているといいます。
一つは行動哲学であり、一つは恋愛哲学であり、一つは生きた哲学である。
(p.35)
他は分かると思うのですが、恋愛哲学というのが葉隠を読んだ人としてはどうなのだろう、という疑問を感じるところです。
しかし日本では極端にいうと国を愛するということはないのである。女を愛するということはないのである。日本人本来の精神構造の中においては、エロースとアガペーは一直線につながっている。
(p.37)
恋闕の情という難しい言葉も出てきます。忍ぶ恋のようなイメージでしょうか。三島さんの作品だと潮騒というのが思い浮かびますが、その裏には葉隠の恋愛哲学があるのですね。
さて、葉隠といえば有名な
武士道といふは、死ぬことと見付けたり。
(p.41)
ですが、これに対して三島さんは次のように解説しています。
死を心に当てて万一のときは死ぬほうに片づくばかりだと考えれば、人間は行動を誤ることはない。もし人間が行動を誤るとすれば、死ぬべきときに死なないことだと常朝は考えた。
(p.41)
常朝というのは葉隠の著者です。この「死」に対する考え方が、隆慶一郎さんの作品によく出てきます。「死ぬことと見つけたり」という、そのものズバリの題名の小説もあります。最悪死ぬところまで想定して行動すればまず間違いはない、というのは言われてみたらそうかなとは思いますが、そんなに簡単な話なのかという疑惑もないわけではないですね。個人的には「既に死んでいる」というのが当たっているような気もします。本当に今生きているのか、みたいな。
切腹という日本独特の文化については、
切腹という積極的な自殺は、西洋の自殺のように敗北ではなく、名誉を守るための自由意志の極限的なあらわれ
(p.42)
と述べています。最後は切腹死した三島さんの理解では、それは敗北ではなく名誉を守るという意味ある死だったのです。
(つづく)