相変わらず「レヴィナスと愛の現象学」を読んでいます。今日はボーヴォワールが出てくるあたりまで読みました。
その少し前のところでデリダが
ある本が女性によって書かれることが原理的に不可能であるというのは、形而上学的エクリチュールの歴史において前代未聞のことではあるまいか。
(p.215)
と評しているところは面白いですね。デリダが何とも困っているような顔でうなっているような感じがします。
私が文章を書くとき、こっそり多重の意味を隠すことがよくあるのですが、レヴィナスはもしかすると似たようなことをしているのでしょうか。