サン・ジャン・ピエ・ド・ポー(Saint-Jean-Pied-de-Port)からサンチャゴ・デ・コンホステーラ(Santiago de Compostela)への巡礼の旅をする物語である。
サン・ジャン・ピエ・ド・ポーはフランス南西部の村で、スペインとの国境近くにある。ここから、スペインを横切る感じで西へ西へと向って大西洋の近くあたりにまで行ったところにサンチャゴがある。巡礼というからには、内容はスピリチュアル。キリスト教的にはかなり異端な感じもするが、不謹慎かもしれないがファンタジーのような感じで読めば面白い。宗教的、教訓的な内容が満載である。
世の中のものごとは、たいして長続きしないのだ
(p.160)
盛者必衰ということを言っている。人の世は一時的なもので、神の国は永遠というのはキリスト教での基本的な考え方になっている。この世は実は仮の姿という発想は世界中あらゆるところに存在している。ていうか全部そうじゃないか、もしかして。
教訓的といえば、例えば。
君がこれまでに学んできたことは、それを現実の生活に応用できた時、初めて意味を持つ。
(p.219)
何にしろそうだ。学ぶということはそれ自体は役に立たないのである。
もし、くぎがなかったら、かなづちはまったく意味を持たない。そしてくぎがあったとしても、『二回たたけば、あのくぎを打ちこむことができる』と思うだけでは、やはりかなづちは役に立たない。
(p.220)
ここでは、学んだ知識を「かなづち」、現実の生活に発生した問題を「くぎ」に置き換えている。知識は使わないと役に立たないという当たり前のことを説明するにしては大袈裟かもしれない。ここで重要なのは、やはり「かなづち」がないとどうしようもないということだ。
教えるということは、ただそれが可能だということを示すことなのだ。
(p.221)
教える立場としては、教わる人が応用するところまでは面倒を見ることはできない。応用は本人が実践して把握していくべき問題なのだ。
彼女はイエスに対する信仰について話し、日照り続きでオリーブの収穫が心配だと言った。
(p.326)
これなどは、私の感覚としては違和感がある。信仰がある人はオリーブの収穫を心配しないはずだ。世の中をどうするというのは神が心配することであって、神の子である人間は、それをありのまま受け入れるしかない、というのが教えではなかったか。心配するというのは神を疑うということである。イエスが生きていたら「まだ分からないのですか」と説教されそうなところだ。
最後に、これはいいなと思ったのがコレ。
夢で何をしたいかを発見すれば、その夢を実現できる
(p.342)
巡礼の案内者、ペトラスの教えてくれたことである。まず夢を見つけること。見つけたら、それは実現できるという。本当だろうか、と思ってはいけないのだ。それは巡礼者のすることではないからだ。
星の巡礼 Anniversary Edition
パウロ・コエーリョ 著
山川 紘矢 翻訳
山川 亜希子 翻訳
KADOKAWA
ISBN: 978-4041063279