Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

ながい坂

今日は「みちのきち」に紹介されていた、山本周五郎さんの「ながい坂」である。細かいことをいえば、一冊ではなく上下巻で2冊だ。しかもながい坂どころかながい話である。タイトルの「ながい坂」については、次のような記述がある。

私は背伸びをして、ながい坂を登ってきた
(下、p.424)

主人公の三浦主水正の言葉である。主水正の子供の時代から城代家老になるまでのストーリー。途中の波乱万丈が尋常ではない。

主水正は幼少時は安部小三郎という。元服して主水正と名を改め、その後ちょっとゴタゴタがあって三浦家を再興することになり三浦を名乗る。主水正の父は二十石ばかりの徒士組頭だ。まあまあ下っ端である。それが藩主の昌治(まさはる)に才能を見込まれて忍びのお供に命じられたりするから他の藩士からの視線がただごとではない。ありとあらゆる妨害から逃げ回ったりして最後は何とか成功するが、そこまで苦労するのならもっと気楽に生きた方がいいじゃないか、というような含みのある小話もいろいろ出てくるところが面白い。

教訓譚となるような話も出てくる。それが教訓のようだしそうでもないような所が面白い。例えば、

材木奉行に水沢玄蕃という人がいた。たいそう用心深い性分で、石の落ちてきそうな崖の下などは、決してあるかない。必ず遠廻りをして森番小屋を巡視したものだ。(中略)それが森へ登る道で、もっとも安全な場所だといわれる、川岸のところで足を踏み外し、流れにのまれて溺死してしまった。
(上、p.114)

ただのバカ話のようにも思えるが、いろんな解釈ができる。注意がまだ足りなかったとする解釈。どんなに注意してもミスは発生するという解釈。玄蕃ほどの者がそんな安全な場所で足を踏み外すわけがないと考えれば、何かの罠ではないかとする説も可能だろう。そもそも泳ぎを鍛錬しておくべきだろうという考え方もできる。

ストーリーの全体を支えているのは、物事は単純な善悪では判断できないということだ。主水正が安部小三郎の頃に、家老の息子の滝沢荒雄(のちの兵部)にだまされて、組太刀という約束を破っていきなり勝負に持ち込まれてしまう。小三郎はそれでも勝負を避けて受け太刀に徹したため、荒雄を怒らせてしまったのだが、ではどうすればよかったか。

「――けれども、相手が約束をやぶって勝負に出たとするなら、是非善悪を考えるよりも、応じて立つほうが自然だと思う。人間はいつも、正しいだけでは生きられないものだからな」
(上、p.92)

師匠の谷宗岳の言葉だ。自然という言葉が深いか。この師匠が最後は落ちぶれてどうしようもない男になってしまうのも怖い。

人間は善と悪を同時に持っているものだ。善意だけの人間もいないし、悪意だけの人間もいない。
(下、p.136)

この箇所は、もっと明確に、善悪が簡単に二分できるものではないと述べている。主水正は小説中では基本的に善人なのだが、いわゆる悪徳商人と仲良くなるような側面もある。とはいっても悪政に至るのではなく、商人を利用して藩も潤し民の利益にもするという無茶苦茶なプランを実行しようとするわけだが。ともかく、商人が自分の利益を最優先にするのは悪かというと、必ずしもそうではなく、両面性があると言いたいわけで、いいところもあり、悪いところもあるのだ。

物事は両面から見ないと分からないという話も重要なテーマなのか、至るところに出てくる。火事で孤児になった子供を農家に預けたら子供が嫌だという。一日に塩むすび2つしか食わせてもらえないし、こき使われる。だから逃げ出すというのだが、その農家の言い分を訊いてみると、こんなことを言う。

うちにも子供たちがおりますし、遊んで食ってるわけじゃない、あの子たちにしても、いまのうち手に職をつけておかなければならないでしょう。それが、ちょっと仕事を教えようとすると、やれこき使うの、めしが少ないの寝るまもないのと、不平だけはいちにんまえで、あげくのはては物を盗んでとびだしちまいました。
(上、p.159)

これでは話が全然違う。事象はおそらく同じことで、嘘を言っているわけではない。どちらも自分勝手な解釈をしたのである。

人間はたいてい自己中心に生きるものだ
(上、p.59)

この言葉を、自宅で祝いの宴をしているときには他で困っている人のことは考えていない、というような例で説明している。もちろんその通りだが。自己中心的ということでは、次のような表現もある。

「自分でこれが正(まさ)しい、と思うことを固執するときには、その眼が狂い耳も聞こえなくなるものだ、なぜなら、或る信念にとらわれると、その心にも偏向が生じるからだ」
(上、p.91)
およそ人間は自分のすることを善だと信じ、他人のすることには批判的になるものだ。
(下、p.212)

正しいという評価が自己の中に固定されてしまうと、それを覆すことは難しくなる。それが間違っていることを示す証拠が出てきても無視してしまうものだ。

この小説には、今の社会や政治に対しても痛烈な批判になっているような話がいくつも出てくる。

しんじつよりも、また聞きのほうがゆるがせにはならない。世間は事のしんじつより、風聞のほうに動かされやすいものだ。
(下、p.36)

これは拾礫紀聞という文献に関して、主水正が滝沢主殿(とのも)に訊ねたときに主殿が言った言葉。主殿は先に出てきた兵部の父だ。主殿は何が書いてあるか知っているのかと問うて、主水正はまた聞きしか知らないと答える。それに対して、事実かどうかよりも風聞がどうなっているかの方が重要だというのだ。風聞に動かされるというのはモリカケのようなワイドショー的な話題を見ていると痛烈に思うことがある。

おまえさんは、本人を信じねえで、人の噂のほうを信用するのかね
(上、p.168)

今でも世間というのはそういうものだろう。なぜ噂を信用するかというと、その方が面白いからではないか。事実なんて大抵は面白くも何ともない。政治の話としては、こんなのがある。

いま新政とかれらのいう政治のやりかたは、ただおれのやった事を壊すだけが目的で、新しい効果のある政事はなにもやってはいない
(下、p.183)

藩主の飛騨守昌治(まさはる)の言葉。はて、どこかの野党のような話ですな。

とにかく人間は重き荷を背負って的な話も多い。いくつか名言的なのを紹介してみると、

人間の計画することに完璧なものはない。たいてい隙があり不備なところがあるものだ
(下、p.158)
世の中にはこれは慥かだと、いえるような物はなに一つとしてない。
(下、p.195)
人間のしなければならないことは辛抱だけだ
(下、p.197)

その上で、人間はどう生きるべきかという奥深いテーマに挑戦した小説なのである。主水正はこの小説では成功した人物だが、もちろん落ちぶれる人物も出てくる。武士を捨てるという人もいる。ではそれは負けたことになるのかというと、こんなことが書いてある。

「人間の一生は勝ち負けではないし、仮に勝ち負けがあるとしても、死んでからでなければわからないものです」
(下、pp.525-526)


ながい坂
山本 周五郎 著
新潮文庫
上巻 ISBN: 978-4101134178
下巻 ISBN: 978-4101134185