Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

人間臨終図巻

今日は先日「戦中派闇市日記」でちょっとだけ紹介した、山田風太郎さんの「人間臨終図巻」を紹介したい。文庫本で2巻の構成だが、私は第1巻して持っていない。第1巻には十代から四十代で死んだ人々が紹介されている。

若くして亡くなった人は特に悲惨な感じがする。先頭を切って紹介されているのは八百屋お七。年齢は十五歳で、数えで十六歳は成人だから死刑になったと説明がある。火あぶりの刑というのは残虐だと思う人もいるだろうが、当時の江戸で火事になると大勢の死者が出たわけで、どちらが残虐だといわれるとなかなか難しい。

あまりに大勢出てくるので、特に印象に残ったところだけ、いくつか紹介しよう。

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石川啄木さん

「金を払わないから、医者も来てくれない」
(p.50)

栄養失調だか米を買う金もないという状態で、一家は結核にかかってしまって薬に金がかかるので大変だ。この言葉は啄木さんの老母が亡くなった後、見舞いに来た金田一京助さんに言った言葉である。金田一さんはこの後、家に戻って有り金を全部集めてきて啄木さんに渡したという。啄木さんが亡くなったのはその一ヶ月後のことだ。

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高杉晋作さん

「おもしろきこともなき世をおもしろく」
(p.60)

これに望東尼さんが「すみなすものは心なりけり」と続けたという有名な逸話を紹介している。心理学的にも、面白いか面白くないかを判断するのは脳の仕事であって、外部の仕事ではない。というところまで考えてみると面白い。

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園井恵子さん

「十九日の園井の体温は三十九度。体の節々の痛みを訴えました。翌二十日朝の体温は三十九度八分。胸部の苦しさを訴え、左腕に紫色の紫色の小豆大の潰瘍が出来、脇や腰に皮下出血があって、そこをしきりに掻ゆがり、脱毛がはじまりました。
(p.110)

宝塚出身の女優。八月六日、広島で被爆して、爆風で吹き飛ばされた。その時は「無傷に見えた」ようだが、体の内部から壊れていき、二十一日に亡くなった。福島原発事故で被曝した人がいるが、原爆の爆風を直撃で受けるとこのような結果になるのだ。政府は核ミサイルの攻撃を想定した対策をしているようだが、このような被害をリアルに想像できている日本国民はどれだけいるのか。

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山口良忠さん

「戦中派闇市日記」の評で、配給の食べ物だけを食べて餓死したことを紹介した。もしかして家族は配給以外の食べ物も食べていたのかと想像したのだが、AERA dot. には、山口さんが判事のうちは二人の子供に出来るだけ多く与えていたそうなので、つまり家族揃って配給だけで生活していたらしい。ただ、判事を辞めて療養するようになってからは、配給の食べ物以外も食べていたとも書かれている。この本によれば、その時はもう手遅れで、

与えられた食餌はすべて下痢となって排泄された。
(p.136)

とのことである。

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塚越賢爾さん

「こんどの飛行の成功は二人だけのもでなく、大和魂の結晶であります」
(p.304)

パイロット。引用したのは昭和十二年四月に東京-ロンドン間を飛んで亜欧連絡飛行の新記録を出したときの言葉だ。大和魂という言葉は、グローバル化とか言っている今となっては伝説といってもいい概念だろう。当然、この後の戦争でも飛行機に乗ることになる。昭和十七年、極秘指令によりシンガポールから西に向かった後、機は消息を絶った。撃墜されたのだろう。

§

植村直己さん

「倅は、お国にもご近所にも、何の役にも立たんことをして、こんなに心配していただいて申しわけない」

冒険家の植村さんの最後の挑戦は、因縁のマッキンリーだった。1968年に単独登山の許可が出ず断念した後、1970年8月に単独登頂に成功。そして1984年2月、初の単独冬山登山に挑む。12日に単独登頂に成功したという無線連絡があった。しかし翌日の連絡が最後となり、行方不明となってしまう。この日が植村さんの命日とされている。紹介したのは植村さんの老父の言葉。何の役にも立たないかというと、そんなことはない。多くの人に多くのヒントを与えたはずだ。


人間臨終図巻1<新装版>
山田 風太郎 著
徳間文庫
ISBN:9784198934668