Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

戦中派闇市日記―昭和22年・昭和23年 (3)

3月中に何とか終わらせたいぞ、「戦中派闇市日記」。とにかく毎日書くのは大変なのだが、こんなのもアリなのか。

二十五日(日) 晴
神経。
(昭和二十三年四月二十五日)

この日はコレだけしか書いてない。本文が句読点を入れて3文字だ。試験の勉強に忙しいのだろうか、神経というのは神経学の勉強のことだと思われる。私なら「開発」とか「デバッグ」とただ一言書けば、似たような状況を作り出せそうだ。忙しいときは本当に忙しいのだが、それでも書かずにはいられないというのも分かる。ていうか、今だってこんなの書いている場合ではないような気がしてきた。

山田氏は当時、推理小説を書いていただけあって、マニアックに知識を持っていたから推理小説の話もたくさん出てくるのだが、この日記で特に絶賛しているのはアガサ・クリスティと、この本。

『Yの悲劇』読。
(昭和二十二年十二月二十三日)

二十二日の日記には「バアナビイ・ロス」と作者が書かれている。もちろんエラリー・クイーンだ。山田氏はこれを高く評価したようで、この日には「何だかガタガタしているようだ」と評しているが、後日(後述の一月八日)それがなくなったと書いている。個人的には、Yの悲劇はもちろん超名作だと思っている。何度も読み返した。ただ、私としてはこの作品の一番の注目すべきところは、最後の最後、ドルリー・レーン氏が企んだ罠にあるのだが、そこには触れていない。

寐ころんで『Yの悲劇』再読。
(昭和二十三年一月八日)

山田氏も読み返している。横になると何か感覚が変わるのかもしれない。

この頃、リアル社会で大事件が起こっている。帝銀事件だ。

数日前豊島区椎名町の帝国銀行支店に毒殺事件があって連日新聞にそれが書き立てられている。
(昭和二十三年一月三十一日)

推理小説家としては、このリアル事件には猛烈な興味を持ったと思われるし、仮説も書いている。実は私、以前、椎名町の近くに暫く住んでいたので、あのあたりに若干土地勘があるが、もちろんこの時代のことはまるで知らない。それはそうとして、この事件に関する悪についての感覚なのだが、

帝銀事件犯人平澤貞通自白、その家にウンカのごとく群集あつまり、雨戸をとじて泣きくれている家族に聞こえよがしにオカミさん達が「ニクラシイわね」「これがあの大罪人の家なんだッてサ」と悪口しているという。十二人の人間を一瞬に毒殺して金をうばった平澤自身より、この小さなオカミさん達の心の方が一層悪意に満ちている。それだから人間の悪はおそろしい。
(昭和二十三年九月二十七日)

これは確かに分からなくもない。

§

精神論的な話、特に日本人的なネタがいくつか出てくる。その前に女性の話をちょっと紹介しておくと、

女性を美しく描くのは男性の夢であり、それ以上の何者でもない。
(昭和二十二年十一月七日)

医学生としての女性観としては幻想的なところが面白い。上野公園に行ったときの話があるが、

遠足の新制中学の女学生ら、黄塵あげてぞろぞろ行く。
(昭和二十三年五月八日)

なぜこれをわざわざ書いたのかというのが実に興味深い。女学生に関しては、次の記述もとても気になった。

別に松竹少女歌劇『希望の星』なるものあり、始めて少女歌劇を見、始めて女学生達のイヤラしき熱狂ぶりを見、始めてその愚劣低能なるに呆る。
(昭和二十三年七月二十九日)

なにがあった?

という感じで、女性ネタから離れて精神的、ていうか哲学的な話題を拾ってみると、

価値は単にその実質に依らずその数に依ることが多いようである。即ち、世界に於ける数が少なければ少ないほどその価値が大となる。
(昭和二十二年十二月四日)

希少価値という。では真の価値とは何だろうか、ということについて山田氏は説明しない。そのテーマは既に頭の中で解決しているのであろうか。価値の話が出てくるのは日本が貧窮の時代になっていたからだろうが、GHQの占領政策について、成功でも何でもないと指摘しつつ、サラっとこんなことを書いている。

それでいて、世界で一番平和だといわれるのは、日本人が地球上稀なおとなしい国民だからであって、長いものに巻かれることに驚嘆すべき忍耐を持っているからである。
(昭和二十二年十二月九日)

個人的にはユダヤ人もなかなかなものだと思うが、確かに日本人は忍耐という点ではかなりのキャパを持っているような実感がある。そういうのはキレた時が怖いのだ。

そういえば、新カナづかいには反対だという話が出てくる。

全く文法の成立しようもない、メチャクチャな言葉は却って、日本語の学習を不便ならしむるものとして反対である。
(昭和二十三年十一月七日)

この日記も旧カナで書かれている箇所が多々ある。もっとも、それにこだわっているようにも見えないのだが。学問という視点からは思うところがあったようだ。例えば、

生まれてよりのすべての学問、経験――何をなすべきか、ということではなく、何をよそおうべきか、ということ。
(昭和二十三年七月五日)

これはちょっと難しそうである。教育というのは、何が正しいかではなく、どのようにふるまえば正しいか、というものだというのだろう。先に闇食料を拒否して餓死した人の話を紹介したが、あれは本人の信念としては正しかったのかもしれないが、ふるまいとしてはどうなのだろうか。

「理解しない」――いや「理解できない」ということは、いいことである。
(昭和二十三年九月十六日)

といった、独特な感覚も出てくる。凡人の感覚なら、理解した方がいいと思いそうなところ。

理解されないといって寂しがるのは、ゼイタクであって、このことこそ最も嘆賞すべき事実なのだ。
(昭和二十三年九月十六日)

そこまで言い切っているのも面白いと思うが、私の場合も、このような文章を書くときに、理解されることを特に前提にしていない。もちろん、理解されないように書いているわけではないが、読めば理解してもらえるなどと自惚れてはいない。だから私の場合、寂しいという感覚は元からないのだと思う。逆に、何で分からないかなぁと言っている人がいると、何で分かってもらえるという自信があるのか不思議でしょうがない。

山田氏は少しヒネたこともタマに書く。

他人の不親切をボヤくのはやめて、吾々は須らく不親切になるべきである。
(昭和二十三年三月十一日)

もちろん反語ではあろうが、今の東京の不親切さはどうだろうか。老人に席を譲らないというが、最近の東京を見ていると、その程度ならまだ可愛いような気がしている。

心理的な話としては、登記に行って代書してもらうときの代書人の描写がよかった。

片腕のない男、ヒカラビテ貧相な男、ことごとくおそろしく横柄である。人民のペコペコする姿をいつもここで見つづけているから、自分達がえらくなったような錯覚があるのだろう。
(昭和二十三年六月二十一日)

心理の形成過程まで踏み込んで考察しているが、当時は弱肉強食、今の日本のように全員一緒にゴールしたり学芸会で全員主役なんて時代ではない。強いものは偉い、そういう時代なのだろう。今の感覚で考えると解釈を間違えてしまうような気がする。いや、実はあまり変わらないのか。

§

言うまでもないが、当時の日常生活は、なかなかキツいものだったようだ。

サツマアゲ六個二十円、チクワ三本三十九円(カマボコ一つくれといったら九十円だといわれてやめた)、レンコン一本(百五十匁)三十五円、代用醤油一升百円、葱五本二十円、大根二本三十円、杓子一本十二円、ハミガキ粉二袋一〇円八十銭買ってきたら日がくれた。
(昭和二十二年十二月十四日)

代用醤油というのが分からないのでググってみたが、なかなか酷いものだったらしい。さらに家賃もバブルっぽい悲惨なことになっている。

わが記憶ある最初の家賃は三十円なりき、去年の冬頃よりか九十円となる。
(昭和二十三年三月十五日)

東京から帰省したときの日記も面白い。リュック紛失事件。

ふと気づきて標柱見れば「胡麻駅」。愕然たり、背にリュックなし。余はいかにしてこの駅に降りたるや更に記憶なし、こんなことがあってたまるべきやと、吾と吾が身をつねるにやはり痛し!
(昭和二十三年四月七日)

リュックには医学書とか入っていてヤバしと絶望していたのだが、このリュックは後で出てくる。帰省先が「八鹿町」と書いてあるので Google Maps で調べてみると、兵庫県の中央よりはやや日本海側。ここまで電車を乗り継いで行くのはかなり大変そうだ。

最後に、東京裁判の判決に関して。東條英機に死刑判決が出たというニュースで、

アメリカはこの刹那、東條に敗北した。
(昭和二十三年十一月十二日)

なかなかの絶賛ぶりである。これは東條が判決を聞いて、微笑んで法廷を去ったことを評しているのだ。アメリカ人にこんなことができるか、といいたいのであろう。しかしなぜ微笑んだのか。

彼は戦死者のことを考えていたのだろう。
(昭和二十三年十一月七日)

俺もそっちに行くぞという感じか。敗戦のときに自殺した将校がいたが、部下を死なせて自分が生きているのは恥だという感覚があったのではないか。日本の軍人の根幹には武士道があるのだ。


戦中派闇市日記―昭和22年・昭和23年
山田 風太郎 著
小学館
ISBN: 978-4093874403