Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論 (2)

昨日の続きで、堀江貴文さんの本から。洗脳といえばすぐに思いつくのが自己啓発【違】だけど、これは面白いと思ったのは、

某回転寿司チェーンが、新人研修で「社訓」を暗唱できなかった内定者に、入社辞退を求めていたというのだ。
(p.31)

これはあるあるだ。テストに通らないと契約終了というので話題になっているのは理研の非正規だっけ。テストで合格しない社員は減給するという世界は意外と普通にあるような気もするが、しかし、

そうやってできあがるのはきっと、目を輝かせて「会社のためなら死ねます!」と言う社員なのだろう。
(p.32)

それはいくら何でも考え方が甘いんじゃないか。いや、そうと言えないこともない。確かに「会社のためなら死ねます!」と言う社員になるというのも経験的にはその通りなのだ。しかし、それはそう言っているだけであって、社員は全然そんなことは思ってないと思う。演技に過ぎないのだ。だから飲みに行けばいろいろ面白い話が聞けるし、簡単にヘッドハントされてしまう。この前なんか、ラジオの投稿で多分それ系の社員じゃないか、みたいな内容の投稿があってビックリした。ヤバいよ。そういえば、堀江さんって、一社員として上司に怒られながら働いたことあるのかな、その目線からの世界が案外面白いのだけど、もしかしたらそこがごっそり抜けているのかもしれない。

要するに、洗脳といっても、根っこのところから本気で変えようというのはなかなか難しいと思う。

次に違和感があると言いたいのは、文化について。

たとえば、アメリカ人を「違う国の人」と感じる最大の理由は、お互いが住んでいる場所の違いであり、使用する言語の違いだ。
(p.41)

確かに言語の違いは超決定的かもしれない。しかし個人的には、異国人を「違う」と感じる最大の要素は文化的要因だといいたい。例えばウソをつくのが平気な国がある。例えば中国の歴史を見れば謀略のオンパレードで、いかに敵を欺くかに全力が注がれているように見える。むしろ騙すのが正義のような気までしてくる。もちろんそれは中国だけの話ではないし、日本ですら同様の空気は少なからずあるが、少なくとも日本には「ウソをつくのは悪い」という大前提があるような気がするのだが、それは他の国では通用しないことに日本国民は気付いているだろうか。教科書には書いてないからなぁ。

次は、地方の居心地について。

大都市圏で働く高所得層の納めた税金が地方に回っているからこそ、地方の居心地の良さは守られているのである。
(p.58)

大都市で稼いだ金が使われている、という所には全く異議なし。その通りだ。

しかし、個人的には、地方の居心地の良さ隣人関係が支えているような気がする。ウチとソトという考え方がある。地方の町内会は「ウチ」に属するが、東京にいると、町内会ですら「ソト」でしかあり得ないような感覚があるのだ。ざっくり言えば、東京では隣の人は他人だ。地方にいると隣人はウチとして家族ではないが仲間的な感覚が強くなってくる。地方の居心地の良さというのは、本質的にはそこにあるような気がする。そういうのは私だけかもしれないけど。

ウチとソトという考え方でいうと、都心から地方へ離脱する人にとっては覚悟が必要な場合がある。都会から引っ越してきた人は、その地域にとってはソトの人である。ソトというのはどちらかというと敵だから、ウチに入れてもらえないと居心地が悪いどころではない。

まあ、ここはそのような話が主題ではないから、どうでもいいことかもしれない。。

ところで、この章の主題は何かというと、G人材L人材である。説明しておくと、この本でG人材というのは、Global = 世界規模人材、L人材は Local 人材という意味だ。スコープの違いである。もう一つ、N幻想という言葉が出てくる。Nは Nation State、国民国家である。これもスコープの話だ。今更言わなくても、インターネットが国境を崩壊させるというのは随分昔から言われていた話で、この本は例としてインドの話を紹介している。

今やインドといえば、IT大国として名高い。
(p.67)

これを書いている時点でまだ 2017年だが、インドは1990年頃に既にIT大国として名高かったと思う。少なくとも日本よりはソフトウェア産業の世界ランキングで上を行ってた。インドのIT企業が発展した要因として、当時 IBMの研究所がインドにあったことが大きな影響を与えたと思っているのだが、まあ時期はどうでもいい、インドが今もIT大国なのは事実だ。そして、ITエンジニアがカーストの抜け穴だったというのはナイス視点だと思った。

つまり、低いカーストの人間が政治家になることは許さないが、20世紀になって初めて登場したIT産業に関わることは許すのである。
(p.67)

余談だけど、AIがこれから進化するとして、AIにはカーストが適用されるのかということについても興味がある。まあされないと思うが、AIはインドの政治家になれるのか、という話だ。インドはダメでも日本ではなれそうな気もする。

ピコ太郎は世界的な大ヒットになったのに、イルマニアがそうでなかったのはなぜか、という話に関して、

この二人の対比から導き出せるのは、「やりたいことをやればいい」というシンプルな結論である。やりたいことをやり、大切にしたいものを大切にすれば、それに賛同する人が必ず現れる。
(p.81)

インターネット人口は全世界人口にどんどん近付いていって、そのうち追い越すに決まっているから、この主張は正しい。世界には自分と全く同じ人間がいると言われている位である。似ている程度の人ならわんさか居るだろう。しかし、賛同されただけでは話は進まなくて、むしろ次に出てくる、

モノやお金の価値が最小化されていく社会では、誰にどれだけ支持されているか、共感されているかが重要な意味を持つ。
(p.81)

それは確かにそうだと思う。

ところで、堀江さんの学びとは何か。

僕が言う「学び」とは、没頭のことだ。
(p.87)

個人的には堀江さんというのは飽きやすいイメージもあるのだけど、集中すべき時はディラックのδ関数のように集中できるのだろう。この次のページに「お勉強」と「学び」の対比表が出ているのだが、それを見るに、堀江さんのお勉強というのはデータの入力、学びは deep learning のような感じがした。

堀江さんの学校には殴る先生がいたようだ。中1のときに、授業中に居眠りしていたら殴られたという。

眠くてあくびをしただけで、ボコボコに殴られる。それが当然とされるのが学校であり、それを内包する社会の姿なのだ。
(p.97)

寝るな、寝ると死ぬぞ的な教育かな。私が高校生の頃、居眠りokという先生がいた。社会の先生だ。社会の姿といわれて思い出した。

ちなみに殴る先生もいた。今の学校の生徒の感覚だと分からないかもしれないが、当時は殴る先生は普通にいた。なぜ殴るかというのは簡単な話で、殴らないと分からない奴がいるからである。言い換えれば殴ると分かる奴がいたのだ。子供の頃から親に殴られて育てられると、殴られるのは悪いことをしたからだというシグナルを感じることができるのだ。

たとえばロンドンブーツ1号2号の田村淳氏は、高校時代、劣等性だったにも関わらず生徒会長に立候補した。理由は「『学校の廊下を走ってはいけない』という校則にどうしても納得できなかったから」だったという。
(p.98)

廊下は走るな、というのはサザエさんとかちびまる子ちゃんで出てきたような気がする。常識(でいいよね?)なのだが、田村さん的には必要なときは走ってもいいと考えたようだ。これも多分ジェネレーションギャップがあって、昔の学校の廊下ってのは古い木の上にワックス塗って磨いたツルツルの状態だった。走るというのはすなわち危険だったのだ。最悪、死を意味するような危険行為なのだ。しかし今はそんな廊下は絶滅しているのではないか。上履きだって進化しているだろう。走っても安全なら走ってもいいというのは合理的な発想である。走るレーンを決めてもいいかも。誰か歩きながら安全に使えるスマホを開発しないのか。

しかし、この話はその後一体どうなったのか不明のままだ。生徒会長になれたのか。校則は変わったのか。言うのは簡単だが実現しないというオチだと悲しいかもしれない。

何か関係ない話になっているような気がするが、とりあえずここでもう一度切る。


すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論
堀江 貴文 著
光文社新書
ISBN: 978-4334039745