ねじまき鳥は書きたいことを書くとどんどんヤヤコシクなるから疲れるからちょっと一休みして、今日読んだ本。哲学です。
従って結局『論考』は、無意味な問いに答えるべく編成された無意味な命題の大集団である、という事になります。
(p.57)
論考は「論理哲学論考」のこと。無意味というのが禅の「無」に通じているというのがこの本の言いたいことのようです。ま、それだけなのですが、いくつか例示的に紹介してくれているので、納得してしまう。ちなみに、禅の言葉の方は、鈴木大拙氏の言葉が何度か引用されています。
こうして見ますと、前期のウィトゲンシュタインの見解もそうですが、特に後期の彼の見解は、禅の見解と驚くほど似ていることがわかります。
(p.74)
大悟したということじゃないのかな。以前(6月24日)、GEB を紹介したときに、禅の核心は「言葉では表現できないこと」だと説明しましたが、それをもっと分かりやすく説明してくれています。
いうなれば、禅における言葉は、語っているのではなく、何事かを語る事によって示しているのです。
(p.76)
示すというのがキーワードなんですね。
言葉には「語る」と「示す」という二つの機能がある、という事を初めて明確に自覚したのは、西欧では、ウィトゲンシュタインでした。
(p.77)
語ると示す、両方混在というのもあるからややこしいです。それにしても、
この大拙の文章も非常に解りにくい。勿論、禅の文章が解りやすいはずはありません。
(p.85)
これは何かバカにされているような気もしました(笑)。
ウィトゲンシュタインと禅
黒崎 宏 著
哲学書房
ISBN: 978-4886790156