Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

宇宙をぼくの手の上に

SF。作者フレドリック・ブラウン氏は、序文にこんなことを書いている。

わたしは、ものを書くのが大嫌いなのである。
(p.10)

どこまで本気にしていいのか分からないが…

この後ブラウン氏は、SFなら非科学的なことでも強引に世界を作って完成できるからいいというようなSF作家らしからぬことを主張しているのだが、個人的には、SFこそ非科学的であれ合理的な一貫性が余計に必要とされるような気がするのだ。猛烈に。だって現実的世界においては、どんなに非科学的で不条理であっても「現にそうだから」という誤解を理由に片付けることができるではないか。

例えばこの短編集の先頭を飾っている「緑の地球」では、地球に帰ることだけを心の支えにして生き続けてきた宇宙漂流者が主人公になっている。主人公に

今じゃ、地球にはだれも住んでいないんです
(p.26)

という事実を告げるとどうなるのか、少し意表を突いたエンディングかもしれないが、あるだろと言われたら実にありそうなオチで締めくくられている。そこにあるのは合理的結論だ。あくまでSFは合理性が必然なのである。あるいは「一九九九年」に出てくるセリフ、

どっちが大事なんです、犯罪者を罰することと、犯罪をなくすことと。
(p.69)

現代の社会常識からいえば罰することが大事に決まっているが、これはSFだから犯罪をなくすことが大事だという非常識だが合理的な結論で幕を引くことができるのである。

「すべて善きベムたち」に出てくるベムや、「星ねずみ」のプルクスルで生き延びている地球外生命体は、高度に発達した知的な存在でありながら、ありそうなオチを予測できずに結局やらかしてしまうという不思議な立ち位置にいる。今の地球の流れならあらゆる結末をシミュレーションで計算し尽くしていそうなものだが、この小説が書かれた当時はAIを使ったディープラーニングなんてSFの世界にもおそらく登場していなかったので仕方ない。あるいは、不完全な存在であることは、生き延びるための必須条件なのかもしれない。やりすぎてしまうと全てが終わってしまい、それ以上続ける意味がなくなるのだ。

ただ、この短編集の中で「さあ、気ちがいに」※だけはちょっとだけ疑問が残った。この話は、ナポレオンの精神が1944年に交通事故から目覚めた男にコピーされてしまうという設定なのだが、その時点で既に、この男が「私はナポレオンだ」と正常な精神状態に基づく主張をし始めたら精神病だと診断されて病院から出られなくなるというオチが必然的に予想できてしまったからである。それを予想しないでノコノコと精神病院に取材入院するというのはちょっとあり得ない話というか、マヌケすぎるような気がしないでもない。

もっとも、この男は宇宙の真実を理解してまさに発狂し、最終的には病院から出てくる。自分はナポレオンだという真実を放棄し、新聞記者ジョージ・ヴァインだという妄想を持つに至った時点で、

精神病院当局もまた、彼をジョージ・ヴァインだと考えていたので、それが妄想であることに気づかず、結局、彼を退院させ、彼が正気であるという証明書を交付したのだった。
(p.376)

という結末に至るのだが、結局狂っているのは社会の方で、正常なのは狂人扱いされる側だというのは現実を批判しているというよりは現実そのものに酷似しているようで、その点は実に面白い。こんな書評を書いたら病院に入れられてしまうのではないかと若干心配になってきた。

※表現としては不適切かもしれませんが、作品名のため、あえて原文のままと致しました。


宇宙をぼくの手の上に
フレドリック・ブラウン
中村 保男 翻訳
創元推理文庫 605-5
ISBN: 4488605052