宮沢賢治氏の「銀河鉄道の夜」はあまりにも有名な小説で、名前だけなら誰でも知っているはずだが、実際に原作をそのまま読んだ人はどれほどいるだろうか。
絵本などで要約したものは触れたことがあっても、今回紹介するちくま文庫の宮沢賢治全集のように、
あの聞きなれた[約二字分空白]番の賛美歌のふしが聞えてきました。
(p.278)
このような、欠損している部分まで書いてあるものを読んでいる人は少ないのではないかと思う。 この箇所は、賢治が賛美歌の番号を失念して、後で確認して書くつもりだったのだろうか。 宮沢氏は法華教の信者なのだが、この小説にはキリスト教の思想が至るところに垣間見られる。 賛美歌もその流れだが、特にサウザンクロスで下車する男の子と女の子のシーンのあたりに、キリスト教的な世界が描かれている。
「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」
(p.289)
これが女の子の台詞だが、これに対してジョバンニは次のように反論する。
「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
(p.289)
法華経とキリスト教の宗教論争という程のものでもないが、根底にある思想を想像すると面白い。 駅に停車し、発車後にジョバンニが見たものは、
そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。
(p.291)
湖上を歩いたという伝説のある、イエス・キリストをイメージしているのだろうか。
この物語の主題は間違いなく「幸福とは何か」である。それはジョバンニも問いかけている。
けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。
(p.292)
これに対してカムパネルラはわからないと答えている。つまり結局、その答は読者に殆ど丸投げされているが、いくつも何かを示唆するような言葉が出てくる。
「なにがしあはせかわからないです。本たうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしづつですから。」
(p.274)
ちくま書房のこのシリーズには、銀河鉄道の夜の初期形の異稿が3つ収録されている。第一次稿(pp.461~476) 、第二次稿(pp.477-501)、第三次稿(pp.502-556)である。 第一次稿では、ジョバンニが一人になった後にこのように言っている。
「僕きっとまっすぐに進みます。きっとほんたうの幸福を求めます。」
(p.476)
このことからも、この小説が幸福をテーマにしていることが分かるのである。 ところが、この台詞は最終稿では削除されていて、出てこない。最後の方でジョバンニがカムパネルラを見失って元の世界に戻ってきた後、博士(カムパネルラの父親)がジョバンニに次のように言う。
ジョバンニさん、あした放課後みなさんとうちへ遊びに来てくださいね。」
(p.298)
おそらくここがこの小説の最も難解になり得る箇所だろう。 直前の表現から想像するに、博士はジョバンニがカムパネルラと銀河鉄道に乗っていたことを知っているような雰囲気がある。もう駄目ですという表現もあることから、この時点で博士はカムパネルラが死んでいることを確信しているはずだ。その上でなお放課後に遊びに来いというのは一体どのような思考に拠るのだろうか。単なる挨拶とは思えないのである。巻末の解説でも指摘されているが、第三次稿では博士は饒舌である。随分多くのことを語らせている。それが最後にバッサリと切り捨てられている。そこに宮沢氏の抱いていた「理想世界と現実世界との落差」を感じるべきなのかもしれない。即ち、この小説では死は不幸とイコールではない。幸福は何かそういう次元とは別の世界のものとして描こうとしているように思われる。今の日本で子供が川に落ちて見つからない、もうダメだろうという時に親はどのように振舞うだろうか。泣き叫んだり、誰かの責任を追及してみたり、そのような行動を取るのではないか。しかし、博士はカムパネルラが短い人生の中でやるべきことをやったのを幸福だと解釈しようとしたのではないか。
ところで、この小説をネットで検索したところ、蠍(さそり)の話が結構ヒットした。 先ほど紹介した天上の国に行く女の子が語るのだが、いたちに食べられそうになった蠍が逃げているうちに井戸に落ちておぼれてしまう。そのときに蠍がこのようなことを言う。
どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神様。私の心をごらんください。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。
(p.287)
食物連鎖のような発想がない時代に自分を他者の生命のために直接的な犠牲にするというモチーフは、例えば仏教では食べ物をくれと言われた兎が自分自身が火に飛び込んだという話がある。この蠍には、雨ニモマケズの「でくのぼう」と呼ばれる理想の姿に何となく共通した要素があるような気もしてくる。宮沢氏が求める「幸」のヒントがここにもある。
宮沢賢治全集〈7〉銀河鉄道の夜・風の又三郎・セロ弾きのゴーシュほか
宮沢 賢治 著
ちくま文庫
ISBN: 978-4480020086