Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

老骨秘剣-はぐれ長屋の用心棒(26)

12月になりましたが、今月も相変わらず「はぐれ長屋の用心棒」シリーズで、今日は「老骨秘剣」です。しかしもうこのシリーズは殆ど残っていません。あと7、8作品程度でしょうか。

今回のメインゲストは老剣客。名前は平沢八九郎。源九郎よりもデキるような剣の達人です。しかし労咳にかかっていて、年には勝てないという状況。咳きこんだ瞬間に相手に斬られてしまうのですね。実際、最後はそれで破れてしまうのですが…

登場シーンでは、平沢と娘の「ゆみ」が四人の武士に囲まれているところを源九郎が助太刀します。平沢は深手を負いますが手当が早かったので助かります。

傷が治った後、菅井の居合のスゴい技を見た平沢は、菅井に一緒に剣の稽古をしようと誘うのですが、菅井は乗り気でない。

「よし、わしが東燕流の剣を見せてくれよう。おぬしが、わしの遣う剣を見事、かわせば剣術の稽古の話はやめにしよう」
(p.60)

菅井の居合を見た後でおまえにはかわせないだろうと喧嘩を売ったわけです。菅井が居合で一閃した瞬間、

……斬った
 と菅井が察知した瞬間、平沢の体が掻き消え、かすかに鍔を打つような音がして右の前腕に疼痛を感じた。
(p.62)

菅井の居合はかわされて籠手を打たれたのです。

「これが、東燕流の鍔鳴りの太刀じゃ」
(p.62)

何かカッコイイ。流石の菅井も驚いた。しかしこの太刀、向き合ったところで面をがらあきにして相手がそこを打ってきたところを避けて小手を斬る、という際どい技なので、腹をくくらないとビビッて技になりません。源九郎ですら、面をあけたときに、

その瞬間、源九郎の身が竦み、棒立ちになった。恐怖が源九郎の身を貫いたのである。
(p.119)

というていたらく。怖いモンは怖いのです。しかし身を捨ててかからないと鍔鳴りの太刀は使えません。

平沢には北川という弟子がいます。北川には東燕流の後を継がせてやりたいのですが、北川はどうしても面をあけるところで怖くなってしまって技が出せません。そこで源九郎に教えを乞うのですが、

稽古で体に覚え込ませるしかあるまい。稽古は嘘をつかぬ。稽古で身についた呼吸や太刀捌きを体が覚えていて、勝手に反応してくれるのだ
(p.154)

剣の技の殆どは体で覚えるというのです。考えて動いているようでは間に合わないのですね。プログラミングと同じです。後で見ると何でこのコードなのか分からない。体が勝手にプログラムを書いている(笑)。

今回のラスボスは矢田。草薙一刀流という、これもカッコイイ流派です。これが最初に源九郎と斬り合ったときに、源九郎は思わず練習していた鍔鳴りの太刀の動きをします。これに矢田が驚愕するシーン。

「鍔鳴りか…」
矢田が訊いた。
「真似事だよ。わしには、鍔鳴りの太刀は遣えぬ」
(p.138)

お互い、無駄にカッコイイ。

老骨秘剣-はぐれ長屋の用心棒(26)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575665918

天主信長〈表〉 我こそ天下なり

今日は上田秀人さんの「天主信長」。この本は表と裏の2冊あるのですが、今回は表を紹介します。ストーリーは織田信長の人生を、比叡山延暦寺の焼き討ちから本能寺まで。本能寺の変の解釈が面白い。ここは伏せておいた方がよさそうなので、今回は触れません。

もちろんメインキャラは信長ですが、それを竹中半兵衛の視点で描いています。

「信長様は苛烈である。だが、不思議と人を引きつけるものをお持ちだ。次に何をなさるか読めぬところが、興味を惹く」
(p.69)

竹中半兵衛の言葉です。策士の竹中半兵衛でも信長の行動は読めないというのです。ま、要するに無茶苦茶なのですが。

織田信長といえば、人生五十年、というのが有名ですが、宣教師ルイス・フロイスキリスト教の天国の話を聞いたときに、

なにもすることがないならば、生きている意味もあるまい。
(p.95)

という感想を述べるのは面白いです。永遠の命よりも大切なものがあります。

半兵衛の策の真髄は臨機応変

こちらの思うとおりに、相手が動くことはかぎらぬ。いや、そうでないことのほうが多い。
(p.115)

しかし、半兵衛は労咳にかかり、ストーリーの途中で病死してしまいます。余命のない半兵衛に、信長は、死ぬのは怖くないのかと訊きますが、

「恐ろしゅうございまする。なにせ経験いたしたことがございませぬ。人は頭で理解できぬことを恐怖いたしまする」
(p.212)

そう言っている割に怖そうに見えないのですね。武士というのはそういうものなのでしょうか。理解できないものを恐怖するというのは、警戒心から生まれる本能のようなものです。理性を働かせると、それも克服できるようです。

 

天主信長〈表〉 我こそ天下なり
上田 秀人 著
講談社文庫
ISBN: 978-4062776219

なんで、私が早慶に!? 2020年版

今日の本は「なんで、私が早慶に!? 2020年版」。アーク出版。本というより、四谷学院のパンフレットみたいな感じではあるが、個人的にはそんなことよりも、なんで2019年に2020年版!? ということの方が気になる。この本が発行された 2019年2月には、まだ2020年の入試は微塵も始まっていないのだ。

この種の本は、当然といっていい位、最終的に成功したレアケースしか紹介していないから面白い。大逆転満載。不合格体験記なんて、例の東大受験本位しか思いつかない。まあ途中の挫折期の話は不合格体験だという解釈もできそうだけど。

ということで、出てくる例を紹介すると、プロ野球選手を目指すも挫折して進学に進路変更した汐田くん。慶應法を目指すのだが、その理由が、

「私立のいちばん上」だから。
(p.16)

そんな理由でええんかい。この時点のマーク模試の結果が、英語78/200点だという。そこから英語ばっかりやって160/200点まで上げたそうだが、この得点、慶應法が目標なら、全くお話にならない低得点だ。ていうか慶應ってセンター試験関係ないよね?

で、ここてら四谷学院に入って55段階個別指導をやったら、センター本番は200/200点が取れたという。これは多分、野球部で鍛えた根性がモノを言ったのではないか。野球だって受験の役に立つ。蛇足しておくとセンターを受けたのは滑り止めのつもりらしい。とにかく全力を出し切って慶應法に合格したというのだが、これはかなり危ない橋を渡っているような気がする。

まあ合格すればどうでもいいことなんだが。

次に紹介したいのは、現役でMARCHも全落ちの濱名くん。中央大、法政大はセンター利用で不合格、立教と青学が一般で不合格。そこで、別に得意でも何でもない数学で慶應商学部を受けることにする。

その選択肢が既に「?」なんだけど、相性がよかったんじゃないかな。数学の偏差値が40から60まで上がったという。それでも、

慶應は絶対に落ちると思って気落ちした。ところが、受かっていたのである。
(p.26)

みたいな感じ。これも結構レアだと思うんだよね、もしかすると100人のうち1人の成功例かもしれない。失敗した人の事例は必要ない。なぜなら、単に間に合わなかった、思うように上がらなかった、で尽きる話だから。でも相性とかあったらワンチャンあるよな、という話にしたければ、多分何か持ってないとダメだと思う。濱名くんの場合は信念かな。数学でいくというガンコな気持ちが幸いしたのかもしれない。

次の事例もなかなか凄い。

坪野航くんは、高校を2年で中退し、2年間、鳶職として働いていた。しかし、「やはり学歴は必要」と思い直して大学受験を決意。
(p.44)

一体何があった?

とにかく、中学レベルから早慶に挑戦して、慶應経済とSFC、早稲田政経、早稲田商に合格したという。鳶スゲー。でも、卒業してからどうするのか、とても気になる。もしかして鳶 again 的なストーリーもあるのか?

33歳で慶應受験の話も凄い。センター模試が174,639/175,891 番だというからほぼ底値、先日 twitter でバズっていた駿台模試2位とはえらい違いだ。この人が予備校行って2年連続不合格の35歳のときに、敗因を

「基礎力もないまま受験本番に突入したこと」が原因だと気付きました。
(p.58)

もっと早く気づけよ、という気もすれば、逆に「よく気付いたなぁ」という気もしてくる。この人も四谷学院に入って基礎からやり直して慶應合格、というパターンなんだけど、それからどうなったの、どうするつもりなの、というのが猛烈に気になる。

この本、こんな人が多いから面白い。つまり、何で早慶なの、入って何やりたいの、卒業したら何するの、ていうのがサッパリ分からないんだよね。私自身が「コレ学びたい」という理由で大学に入ったからかもしれないけど。コレって何だよ、というのは黒歴史だから教えないけど。

最後に現役高校生あるあるを紹介したい。

高1、高2の頃は「3年になったら始めよう」と考え、高3の春には「部活を引退したら始めよう」と決意する。ところが、いざ部活を引退すると「夏休みからが本番だ」と思うようになる。その夏休みもあっという間に終わって、気がつけば、すでに秋……。「もう間に合わない」と焦り、結局は「浪人すればいい」
(pp.120-121)

そういう人って浪人しても勉強しないで、「また来年がある」とか思うような気がする。


なんで、私が早慶に!? 2020年版
受験と教育を考える会 著
アーク出版
ISBN: 978-4860591991

加賀騒動―百万石をたばかる、大槻伝蔵の奸計

今日の本は「加賀騒動」。加賀百万石で起こったお家騒動がネタになっていますが、時代としては、

宝暦期(一七五〇年代)から明治にかけて、実録体小説(稗史)・講釈・歌舞伎等の媒体を通じてそれは天下に喧伝された。
(p.3)

とのことです。

しかし、これが史実に比べてかなり脚色されているということで、本書には物語の現代語訳の前に、検証されている内容が書かれています。

この話、ざっくりいえば大槻長玄が謀略を使って出世し、主君を暗殺して権力を握ろうとするが、最後に失敗して失脚するという物語なのですが、

悪玉・主殺しの叛臣としての大槻は虚像にすぎず、善玉、有数の能吏、藩立て直しの功労者としての大槻こそ実像であるとの考え方は、もはや定着してゆらぎそうにもない。
(p.11)

話では悪人になっていますが、実際は優秀な人材であり、それを認められて出世したところが敵対グループにハメられた、的な解釈が主流になっているというのです。実際、史実を物語に重ね合わせると、物語では暗殺を計画しているはずの日に既に蟄居しているとか、時間的な矛盾がたくさん出てくるわけです。

大槻内蔵允が石川郡の百姓一揆を鎮圧する話があります。不作のため年貢を減らしてくれと百姓たちが訴えるのですが、物語では内蔵允と大庄屋が結託していて何も対応しません。怒った百姓は庄屋の家を打ち壊したので、どう対応すればよいか役人が相談します。ここで内蔵允が直接交渉するから任せろと名乗り出るのです。内蔵允は武装した百姓が大勢待ち受けているところに丸腰で二人だけで交渉に向かいます。

そこへ平服姿の内蔵允が、従僕一人だけを連れて飄然と現れ「おまえたちの立腹はもっともだ――」と穏やかに諭し始めたのである。
(p.116)

相手の本拠地にたった二人で交渉に行くというのは、昨日紹介したヤクザの交渉術と通じるものがあります。作品中ではあまりよく書かれていないのですが、一揆を鎮圧したこと自体は事実であった可能性があるそうです。事実だとすると、なかなかの交渉力ということになります。

これに対して、明らかにフィクションだと言われているのが、奥女中の浅尾を蛇攻めで拷問死させるシーンです。

大きな瓶(かめ)の中に裸体にした浅尾を入れ、瓶の蓋(ふた)に穴を開けて首だけを出させ、数百匹の蛇をその中に放して全身に巻きつかせた。次に瓶いっぱいに酒を注ぎこむ。蛇は酒を呑んで苦しみもがき、瓶から這い上がって逃れようとしても蓋に邪魔されてどうにもならぬ。ついに浅尾の裸身の竅(あな)という竅から入りこみ、食い破り、身体を縦横に貫き通した。
(p.191)

数百匹の蛇って、なでこスネイクじゃあるまいし、そう簡単に集められないような気もするのですが、まさか絵で描いた蛇みたいな話ではないですよね。


加賀騒動―百万石をたばかる、大槻伝蔵の奸計
教育社新書
青山 克弥 翻訳

ヤクザに学ぶ交渉術

今日の本は「ヤクザに学ぶ交渉術」。

ヤクザといえば脅しのプロというイメージかもしれませんが、実際に手を出さなければ、脅しというのも交渉の一種ですから、交渉のプロという視点もあるわけです。この本には、カタギとは違った論理の交渉事例がいくつも出てまきす。

非常識な人間が一番強いんだ。常識的に物事を考えてたら何もできない。頭を非常識に切り替えないとダメ。
(p.156)

という世界ですから、まあ凄いエピソードがゴロゴロと出てきます。ただし共通しているのは、一度決めたら曲げないということ。

最近は暴対法というのがあって、ヤクザは名刺を渡しただけでもアウトになるわけですが、この法律の影響で、ヤクザが普通の人のような外見になってしまった、そのせいで相手がヤクザだと知らずに因縁をつけてしまう事件が続出、という話が面白い。

昔のようにヤクザが一目でヤクザだとわかる格好をしてもらったほうが間違いが起きない
(pp.197-198)

見た目が普通のサラリーマンでも、ヤクザ相手に喧嘩になったら絶対に勝てませんからね。

交渉術としては、有利なところだけで攻めて、不利な話には持ち込まない、という当たり前の方法がこれも徹底しているようです。

かつて関西には強者の大物組長がいて、およそ二対八ぐらいで立場が悪い状況でも、掛け合いでは八の非を詫びるどころか、二のほうの正当性を強硬に押し通すのがつねだったという。
(p.16)

ソフト開発の場合、動いているところだけデモするという技がありますね。

 

ヤクザに学ぶ交渉術
山平 重樹 著
幻冬舎アウトロー文庫
ISBN: 978-4344403123

人類を超えるAIは日本から生まれる

今回は人工知能の話題を扱った本、「人類を超えるAIは日本から生まれる」です。ターゲットは人工知能に興味のある人、という感じでしょうか。あまり細かいことを知らない人が読めば、なかなか面白い内容の本だと思います。本当に専門だといろいろひっかかるところもあるのですが、割と人工知能の発展の流れがよく分かるような構成になっています。

人工知能というと、人間と同じように考えるという妄想を抱きがちですが、

オックスフォード大学教授で哲学者のニック・ボストロムは、人工知能自身が悪意を持つというより、人工知能の「考え方」は人間とはまったく違う、と考えるべきだと言っています。
(p.29)

このあたり、面白い指摘です。最近のAI研究者のトレンドは倫理や哲学なんですよね。そろそろ宗教も出てきて欲しいですが、そもそも、人間の考え方だって、人によって全然ちがいます。誠実が大前提という文化もあれば、嘘を付いて騙すのが基本というような国もあります。人間と人間の間でさえ考え方が統一できないのに、人工知能に何か統一的な考え方をしろというのは無茶でしょう。

人間とコンピュータの間には、明確に違うところもあります。それを考えても、人工知能の行きつく先は不鮮明です。例えば、

ペーパークリップを無制限ではなく「1000万個作れ」と命じられた人工知能はどうするでしょうか。人工知能は自分が作ったクリップの数は「本当に1000万個なのだろうか」と急に心配になります。
(p.30)

私見としては、こうならないような気がします。人工知能はコンピュータの上に実装されます。iレイチェルのように、今までの会話を全て間違いなく記録することが可能です。やろうと思えば、今まで作ったペーパークリップの数は誤差0で100%確実に記憶することができるはずです。これが人間と人工知能の一つの本質的な違いです。

本当にAIが心配するとすれば、1000万個も作っていいのだろうか、というところでしょう。

今のAIブームの延長で人工知能が完成するかというと、

マスター・アルゴリズムディープラーニングの延長戦上にあるとはかぎりません。
(p.53)

~とは限らない、という無難な言い方が個人的には面白くないですが、現時点で素人さんが全く理解できていないのはここではないでしょうか。現状のAIは単なるパターン分けができるに過ぎず、知能の入り口に立ってすらいません。ただ、パターン分けで猛烈に強くなれる囲碁や将棋のようなゲームには強い、というのは確かです。

いろんな先駆者、著名人の意見が紹介されているのも面白いです。

ハサビスは、「ディープマインドの目標は、物理学を発展させて宇宙の神秘を解明することだ」と語っています。
(p.61)

個人的には、それは人工知能だけでは解決不可能だと思います。丁半勝負していいのなら、私は「世の中には何をどうやっても解明できないことがある」に賭けます。

ホーキンスは、インテルに勤めていた時期があり、そこで脳の研究を提案していましたが、ビジネスにならないという理由で却下されています。
(p.74)

ビジネスにならないプロジェクトを却下するというのは企業としては合理的判断だし、それに関しては妥当かもしれませんが、個人的には、脳の研究はビジネスになるような気がしますけどね。

ホーキンスは、人間と同じように考える機械をつくる方法は3つあると言います。1つは生物学的アプローチ、2つ目は数学的アプローチ、そして、3つ目が工学的アプローチです。
(p.76)

3つというのは故意にそうしたのでしょうか。4つ目のアプローチは非常によく知られていると思います。でも伏せておきましょう。

さて、人工知能はどのようにして開発すればいいか。今はインターネットから膨大なデータをgetできるようになり、ハードの性能も上がった、これが最近の AI ブームの発火条件をクリアしたということのようですが、

どこかの地下室で世界を変えるような人工知能が開発される可能性も十分あります。人工知能は頭脳さえあれば開発できるのですから。
(p.92)

それはちょっと甘いでしょう。確かに物理的な発見・発明のためには、大規模な施設が必須になることもよくあります。これに対して、人工知能はコンピュータだけあれば何とかなる。しかし問題はそこで、根本的な条件として、人工知能はコンピュータがなければ開発できない。そして、ビッグデータを十分に処理するような大量の計算を行うためには、膨大な計算機料金を支払う必要があります。つまり、カネが必要だ、というのが今の AI 開発の現場だと思います。これは極細企業にいると切実に感じますね。

さて、この本を手にした理由は、なぜ日本からAIが生まれると考えたのかを知りたかったからなのですが、

NSPUが2025年までに完成すると想定して、今から、その上で動く人工知能アルゴリズムを開発し、世界に先駆けて完成させること。これが、日本にとって起死回生のラストチャンスです。
(p.164)

NSPUというのは日本製の省エネスパコンなのですが、それは私の期待した理由ではありませんでした。個人的にはもう少し面白いことが起きるのではないかと思っているのですが、このあたりにちょっと気になることが書いてあったので、疑問だけ投げつけておいて今日は逃げたいと思います。

超知能の開発のメリットを得られるのは、それを世界で最初に開発した者だけだということです。
(p.160)

何故でしょうか?

超知能を最初に開発した者は、それを使って超知能の能力をますます高めていくことができます。
(pp.160-161)

そのことは否定しませんが、

そうなると、2番手がどうあがいてもキャッチアップできません。
(p.161)

ここが私には分からないのです。この本には、なぜ2番手が1番を抜けないのか、その理由は書いてありません。

といいつつ余談。この本の最後の方に対談記事があります。対談したのは松田さんと斎藤さん。斎藤さんというのは、先にちょろっと引用に出てきた NSPU というマシンを開発した人です。この人はかなり凄い人で、

9歳でアマチュア無線技士の資格もとっています。
(p.172)

9歳にはビックリですね。ちなみに私がアマチュア無線技士の資格を取ったのは12歳のときです。


人類を超えるAIは日本から生まれる
松田 卓也 著
廣済堂新書
ISBN: 978-4331519905

AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体

既にAIが兵器に組み込まれた時代に突入していますが、現時点のAIはせいぜい画像認識。目標物をインプットしておけばGPSなしで目的の場所まで移動して撃破、程度の機能しかありません。それだけでも大したものですが、この本は、将来 AI が進化したらどうなるの、というのがメインテーマです。

低汎用型人工知能という言葉が出てきます。

多様な機能を持ち汎用性のあるものの、設計段階でその振る舞いが決められたロボットに搭載される人工知能を低汎用型人工知能と呼ぶことにしよう。
(p.38)

SFによく出てくる人間と敵対するようなコンピュータとは、かなりレベルが違うわけですが、ただし現在の技術で作れそうなところはリアルです。どう対応すべきか、早急に意思決定しておく必要があるのですが、どうも世界はまだ本気で対応していないような気がしますね。

生物と低汎用型人工知能搭載ロボットでの決定的な違い、前者にあって後者にないもの、それは「生きる目的をもっていること」と「その目的を達成させようとする自律性、能動性」である。
(p.39)

ちょっと気になったのは、皆さん、普段生きているときに「生きる目的をもっている」と意識した上で生きているのだろうか…、まあそれはスルーするとして、ご存知かもしれませんが、現時点で流行している AI は、単なる顔の識別程度の知能で、物事を考えて結論を出すようなモノではありません。

現在の第三次人工知能ブームでの、人工知能の主たる能力は、機械学習による画像認識や大量データからの特徴抽出や分類という知識処理であり、柔軟な判断や直感といった能力に対しては注力されておらず、現在の道具型人工知能技術に対しては、潜在意識に相当する能力は必ずしも必要とされてはいない。
(p.63)

コンピュータが潜在意識を持つためには「意識」を実装する必要がありますが、今の技術はそこまでは進化していないのです。ここで潜在意識という言葉が出てくるのは、人間の行動の大部分は潜在意識によって実現されていて、顕在的な意識が必要なシーンは限られているという説があるからです。日常生活を振り返ってみれば、いかに多くの行為が惰性で実現していることが分かると思いますが、だからといって何も考えていないわけではないので、そこを AI に任せるのは、それはそれで大変なのです。

次の小ネタは面白いと思いました。

「悲しいから泣くのか? 泣くから悲しいのか?」
(p.49)

まず「悲しい」という感情があって、それから涙が出てくるのか、と思いきや、実際に観察してみると、悲しいと意識する前に涙が出ていることが分かるそうです。ただ、泣くことが悲しい感情へのトリガーになっているのかというと、個人的にはこれは同時、もしくは並行処理ではないかと思います。涙が先に出てくるのは入力に対する起動時間が涙腺の方が短いからに過ぎないのでは。

AI は将来、意識を持つようになるでしょうか。

これに関する疑問としてよく聞かれるのが、「将来人工知能も意識を持つようになるのか?」である。もちろん、ここでの意識とは、一般的に捉えられている意識のことで、顕在意識のことである。そして、筆者の回答としては「YES」である。

私の意見も YES なのですが、視点は栗原さんとは逆を向いているようです。私見としては、人間の意識というのは人間が思っているほど複雑ではない、考えているようで実は何も考えていないので、案外簡単に実装できてしまうのではないか、と考えているのです。考えることがあるとしても、その殆どは他人の猿真似、コピーなのです。従って、猿にも出来るようなレベルなんです。いわんやAIをや。

では、そのような意識を持ったAIは、人間に敵対するようなことが有り得るのか。

自律型人工知能であっても、目的を与えるのは人である。よって、人を殺すような目的を与えなければ大丈夫だと言いたいところだが、そう簡単な話ではない。
(p.111)

例えば、漂流者のパラドックスのような場合を考えてみます。どちらかを殺さないと両方死んでしまうようなケースです。どう解決すべきかというのは哲学的な問題になってしまいますが、

「トロッコ問題」
(p.114)

これも類題で、左の道を選んで老人2人を轢くか、右の道を選んで子供を轢くか、という選択問題です。どっちを助けるか、あるいはどちらを殺すかという問題です。栗原さんはトロッコ問題を解けない問題だとしていますが、これは簡単に解ける問題だと思います。つまり、左の道か右の道か、評価して数値が高かった方を選択すればいいだけのこと。イーブンなら乱数を発生して決めればいいのです。この問題が解けないとしたら、それは考えるのが人工知能ではなく人間だからでしょう。しかも、さらに言えば、そのような問題に実際に直面すれば、人間はこの問題を簡単に解くでしょう。どう考えるかは分かりませんが、結果的に必ずどちらかを選択することになるはずです。

ところで、人工知能兵器を、作らないという協定を作る方向で歯止めをかけよう、という考え方があるそうです。

人工知能がトリガーを引くタイプB型兵器開発には踏み込まないという方針は喜ばしく
(p.152)

これに関しては、私見としては最も危険な思想だと思います。そのような方針を決めても、違反する人達は必ず出てくるからです。それが完成したときに、方針を守っていた人達は対応できず、滅亡してしまうでしょう。残念ながら、武力に対応するためには、同等以上の武力を持つしかない。このことは歴史が証明しています。開発と使用は違うのです。

もし人工知能自身が、それを最適解だと判断したとき、何が起こるでしょうか。

本来、人と人工知能はその能力の性質に明確な違いがあり、お互い不可侵な関係にあるはずが、
(p.161)

私はそうは思いません。人工知能というのはあくまで人と同じ知能であり、それは同じ能力・性質を持つものになると想像しています。なぜなら、人工知能は人間が作っているからです。子供は親に似るのです。

最後に、AI とは関係なさそうですが、途中に出てきた体罰の話題から。

体罰を正当化することはできないが、悪いことをすれば叱られる。負の報酬を受け取るからこそ、悪いことをしなくなるよう学習する。以前は負の報酬として痛い思いをすることも時にはあった。現在の我々はいろいろな意味で、弱くなりつつあるように思えてならない。
(p.125)

この点は、私の想像も栗原さんと同じ方向なのですが、「なりつつある」どころではなく、既に猛烈に弱くなっていると確信しています。


AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体
栗原 聡 著
朝日新書
ISBN: 978-4022950215