Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

人類を超えるAIは日本から生まれる

今回は人工知能の話題を扱った本、「人類を超えるAIは日本から生まれる」です。ターゲットは人工知能に興味のある人、という感じでしょうか。あまり細かいことを知らない人が読めば、なかなか面白い内容の本だと思います。本当に専門だといろいろひっかかるところもあるのですが、割と人工知能の発展の流れがよく分かるような構成になっています。

人工知能というと、人間と同じように考えるという妄想を抱きがちですが、

オックスフォード大学教授で哲学者のニック・ボストロムは、人工知能自身が悪意を持つというより、人工知能の「考え方」は人間とはまったく違う、と考えるべきだと言っています。
(p.29)

このあたり、面白い指摘です。最近のAI研究者のトレンドは倫理や哲学なんですよね。そろそろ宗教も出てきて欲しいですが、そもそも、人間の考え方だって、人によって全然ちがいます。誠実が大前提という文化もあれば、嘘を付いて騙すのが基本というような国もあります。人間と人間の間でさえ考え方が統一できないのに、人工知能に何か統一的な考え方をしろというのは無茶でしょう。

人間とコンピュータの間には、明確に違うところもあります。それを考えても、人工知能の行きつく先は不鮮明です。例えば、

ペーパークリップを無制限ではなく「1000万個作れ」と命じられた人工知能はどうするでしょうか。人工知能は自分が作ったクリップの数は「本当に1000万個なのだろうか」と急に心配になります。
(p.30)

私見としては、こうならないような気がします。人工知能はコンピュータの上に実装されます。iレイチェルのように、今までの会話を全て間違いなく記録することが可能です。やろうと思えば、今まで作ったペーパークリップの数は誤差0で100%確実に記憶することができるはずです。これが人間と人工知能の一つの本質的な違いです。

本当にAIが心配するとすれば、1000万個も作っていいのだろうか、というところでしょう。

今のAIブームの延長で人工知能が完成するかというと、

マスター・アルゴリズムディープラーニングの延長戦上にあるとはかぎりません。
(p.53)

~とは限らない、という無難な言い方が個人的には面白くないですが、現時点で素人さんが全く理解できていないのはここではないでしょうか。現状のAIは単なるパターン分けができるに過ぎず、知能の入り口に立ってすらいません。ただ、パターン分けで猛烈に強くなれる囲碁や将棋のようなゲームには強い、というのは確かです。

いろんな先駆者、著名人の意見が紹介されているのも面白いです。

ハサビスは、「ディープマインドの目標は、物理学を発展させて宇宙の神秘を解明することだ」と語っています。
(p.61)

個人的には、それは人工知能だけでは解決不可能だと思います。丁半勝負していいのなら、私は「世の中には何をどうやっても解明できないことがある」に賭けます。

ホーキンスは、インテルに勤めていた時期があり、そこで脳の研究を提案していましたが、ビジネスにならないという理由で却下されています。
(p.74)

ビジネスにならないプロジェクトを却下するというのは企業としては合理的判断だし、それに関しては妥当かもしれませんが、個人的には、脳の研究はビジネスになるような気がしますけどね。

ホーキンスは、人間と同じように考える機械をつくる方法は3つあると言います。1つは生物学的アプローチ、2つ目は数学的アプローチ、そして、3つ目が工学的アプローチです。
(p.76)

3つというのは故意にそうしたのでしょうか。4つ目のアプローチは非常によく知られていると思います。でも伏せておきましょう。

さて、人工知能はどのようにして開発すればいいか。今はインターネットから膨大なデータをgetできるようになり、ハードの性能も上がった、これが最近の AI ブームの発火条件をクリアしたということのようですが、

どこかの地下室で世界を変えるような人工知能が開発される可能性も十分あります。人工知能は頭脳さえあれば開発できるのですから。
(p.92)

それはちょっと甘いでしょう。確かに物理的な発見・発明のためには、大規模な施設が必須になることもよくあります。これに対して、人工知能はコンピュータだけあれば何とかなる。しかし問題はそこで、根本的な条件として、人工知能はコンピュータがなければ開発できない。そして、ビッグデータを十分に処理するような大量の計算を行うためには、膨大な計算機料金を支払う必要があります。つまり、カネが必要だ、というのが今の AI 開発の現場だと思います。これは極細企業にいると切実に感じますね。

さて、この本を手にした理由は、なぜ日本からAIが生まれると考えたのかを知りたかったからなのですが、

NSPUが2025年までに完成すると想定して、今から、その上で動く人工知能アルゴリズムを開発し、世界に先駆けて完成させること。これが、日本にとって起死回生のラストチャンスです。
(p.164)

NSPUというのは日本製の省エネスパコンなのですが、それは私の期待した理由ではありませんでした。個人的にはもう少し面白いことが起きるのではないかと思っているのですが、このあたりにちょっと気になることが書いてあったので、疑問だけ投げつけておいて今日は逃げたいと思います。

超知能の開発のメリットを得られるのは、それを世界で最初に開発した者だけだということです。
(p.160)

何故でしょうか?

超知能を最初に開発した者は、それを使って超知能の能力をますます高めていくことができます。
(pp.160-161)

そのことは否定しませんが、

そうなると、2番手がどうあがいてもキャッチアップできません。
(p.161)

ここが私には分からないのです。この本には、なぜ2番手が1番を抜けないのか、その理由は書いてありません。

といいつつ余談。この本の最後の方に対談記事があります。対談したのは松田さんと斎藤さん。斎藤さんというのは、先にちょろっと引用に出てきた NSPU というマシンを開発した人です。この人はかなり凄い人で、

9歳でアマチュア無線技士の資格もとっています。
(p.172)

9歳にはビックリですね。ちなみに私がアマチュア無線技士の資格を取ったのは12歳のときです。


人類を超えるAIは日本から生まれる
松田 卓也 著
廣済堂新書
ISBN: 978-4331519905

AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体

既にAIが兵器に組み込まれた時代に突入していますが、現時点のAIはせいぜい画像認識。目標物をインプットしておけばGPSなしで目的の場所まで移動して撃破、程度の機能しかありません。それだけでも大したものですが、この本は、将来 AI が進化したらどうなるの、というのがメインテーマです。

低汎用型人工知能という言葉が出てきます。

多様な機能を持ち汎用性のあるものの、設計段階でその振る舞いが決められたロボットに搭載される人工知能を低汎用型人工知能と呼ぶことにしよう。
(p.38)

SFによく出てくる人間と敵対するようなコンピュータとは、かなりレベルが違うわけですが、ただし現在の技術で作れそうなところはリアルです。どう対応すべきか、早急に意思決定しておく必要があるのですが、どうも世界はまだ本気で対応していないような気がしますね。

生物と低汎用型人工知能搭載ロボットでの決定的な違い、前者にあって後者にないもの、それは「生きる目的をもっていること」と「その目的を達成させようとする自律性、能動性」である。
(p.39)

ちょっと気になったのは、皆さん、普段生きているときに「生きる目的をもっている」と意識した上で生きているのだろうか…、まあそれはスルーするとして、ご存知かもしれませんが、現時点で流行している AI は、単なる顔の識別程度の知能で、物事を考えて結論を出すようなモノではありません。

現在の第三次人工知能ブームでの、人工知能の主たる能力は、機械学習による画像認識や大量データからの特徴抽出や分類という知識処理であり、柔軟な判断や直感といった能力に対しては注力されておらず、現在の道具型人工知能技術に対しては、潜在意識に相当する能力は必ずしも必要とされてはいない。
(p.63)

コンピュータが潜在意識を持つためには「意識」を実装する必要がありますが、今の技術はそこまでは進化していないのです。ここで潜在意識という言葉が出てくるのは、人間の行動の大部分は潜在意識によって実現されていて、顕在的な意識が必要なシーンは限られているという説があるからです。日常生活を振り返ってみれば、いかに多くの行為が惰性で実現していることが分かると思いますが、だからといって何も考えていないわけではないので、そこを AI に任せるのは、それはそれで大変なのです。

次の小ネタは面白いと思いました。

「悲しいから泣くのか? 泣くから悲しいのか?」
(p.49)

まず「悲しい」という感情があって、それから涙が出てくるのか、と思いきや、実際に観察してみると、悲しいと意識する前に涙が出ていることが分かるそうです。ただ、泣くことが悲しい感情へのトリガーになっているのかというと、個人的にはこれは同時、もしくは並行処理ではないかと思います。涙が先に出てくるのは入力に対する起動時間が涙腺の方が短いからに過ぎないのでは。

AI は将来、意識を持つようになるでしょうか。

これに関する疑問としてよく聞かれるのが、「将来人工知能も意識を持つようになるのか?」である。もちろん、ここでの意識とは、一般的に捉えられている意識のことで、顕在意識のことである。そして、筆者の回答としては「YES」である。

私の意見も YES なのですが、視点は栗原さんとは逆を向いているようです。私見としては、人間の意識というのは人間が思っているほど複雑ではない、考えているようで実は何も考えていないので、案外簡単に実装できてしまうのではないか、と考えているのです。考えることがあるとしても、その殆どは他人の猿真似、コピーなのです。従って、猿にも出来るようなレベルなんです。いわんやAIをや。

では、そのような意識を持ったAIは、人間に敵対するようなことが有り得るのか。

自律型人工知能であっても、目的を与えるのは人である。よって、人を殺すような目的を与えなければ大丈夫だと言いたいところだが、そう簡単な話ではない。
(p.111)

例えば、漂流者のパラドックスのような場合を考えてみます。どちらかを殺さないと両方死んでしまうようなケースです。どう解決すべきかというのは哲学的な問題になってしまいますが、

「トロッコ問題」
(p.114)

これも類題で、左の道を選んで老人2人を轢くか、右の道を選んで子供を轢くか、という選択問題です。どっちを助けるか、あるいはどちらを殺すかという問題です。栗原さんはトロッコ問題を解けない問題だとしていますが、これは簡単に解ける問題だと思います。つまり、左の道か右の道か、評価して数値が高かった方を選択すればいいだけのこと。イーブンなら乱数を発生して決めればいいのです。この問題が解けないとしたら、それは考えるのが人工知能ではなく人間だからでしょう。しかも、さらに言えば、そのような問題に実際に直面すれば、人間はこの問題を簡単に解くでしょう。どう考えるかは分かりませんが、結果的に必ずどちらかを選択することになるはずです。

ところで、人工知能兵器を、作らないという協定を作る方向で歯止めをかけよう、という考え方があるそうです。

人工知能がトリガーを引くタイプB型兵器開発には踏み込まないという方針は喜ばしく
(p.152)

これに関しては、私見としては最も危険な思想だと思います。そのような方針を決めても、違反する人達は必ず出てくるからです。それが完成したときに、方針を守っていた人達は対応できず、滅亡してしまうでしょう。残念ながら、武力に対応するためには、同等以上の武力を持つしかない。このことは歴史が証明しています。開発と使用は違うのです。

もし人工知能自身が、それを最適解だと判断したとき、何が起こるでしょうか。

本来、人と人工知能はその能力の性質に明確な違いがあり、お互い不可侵な関係にあるはずが、
(p.161)

私はそうは思いません。人工知能というのはあくまで人と同じ知能であり、それは同じ能力・性質を持つものになると想像しています。なぜなら、人工知能は人間が作っているからです。子供は親に似るのです。

最後に、AI とは関係なさそうですが、途中に出てきた体罰の話題から。

体罰を正当化することはできないが、悪いことをすれば叱られる。負の報酬を受け取るからこそ、悪いことをしなくなるよう学習する。以前は負の報酬として痛い思いをすることも時にはあった。現在の我々はいろいろな意味で、弱くなりつつあるように思えてならない。
(p.125)

この点は、私の想像も栗原さんと同じ方向なのですが、「なりつつある」どころではなく、既に猛烈に弱くなっていると確信しています。


AI兵器と未来社会 キラーロボットの正体
栗原 聡 著
朝日新書
ISBN: 978-4022950215

俺たちの仇討-はぐれ長屋の用心棒(42)

今日の長屋シリーズは「俺たちの仇討」。今回のゲストは戸坂と彩乃。このシリーズ、武士と娘の組み合わせが多いですね。

彩乃の父親の敵討ちに武士が助太刀という仇討ちパターンです。この戸坂は源九郎の昔馴染、

「わしは、戸坂だ。戸坂市三郎だよ、士学館でいっしょだった」
(p.22)

源九郎が用心棒をやっているというのを聞いて訪ねる途中だったのですが、そこで敵に待ち伏せされてピンチ、というところに源九郎が駆け付けたわけです。この戸坂が、変な剣を遣います。

わしが工夫したものでな、酔剣と呼んでいる。
(p.37)

ジャッキーチェン!

ではなくて、剣の奥義でいうところの遠山の目付です。一点集中ではなく全体を見て並行処理する技です。

さて、今回も敵が大勢いるので、一人ずつ片付ける策に出ますが、まず狙ったのか伊東。

「伊藤を捕らえるなら、早い方がいいな。どうだ、明日にも伊東の屋敷近くに張り込んで、姿を見せたら押さえないか」
(p.82)

拉致が板についてきたというか、テロ集団的になってきましたね。サクっと拉致って、次に拉致したのは平松。この平松、半ば騙されて相手の仲間になっているので、

「おぬしも、倉森たちといっしょにここに押し込み、戸坂たちを襲い、長屋の女子供まで斬り殺すつもりでいたのだな」
p.115

とか、挑発するようなことを言うと、迷いが生じます。ジジイと小娘が相手なのに何で大勢で急襲するのだ、とか問い詰められると答えられない、ていうか何で最初から気付かないですかね。

それでも敵は長屋を大勢で急襲します。これを用心棒達は何とか撃退しますが、すると敵さんは長屋の子供を人質にとって、長屋から出て行かないと子供を殺すと脅しをかけます。汚いですね。 敵は勝本源八郎という旗本の屋敷にいて、ここに子供が監禁されていることが分かる。 そこで、用心棒は子供が監禁されている旗本屋敷に忍び込み、人質を取り戻します。

しかし、このままでは倉森を片付ける算段がつかない。相手が出てくるのを待っている暇はないだろうということで、安田が名案を思い好きます。

「倉森たちと同じ手を使ったら、どうだ」
(p.189)

どんな手かというと、

「房吉と同じように、人質をとるのだ」

旗本の勝元を人質にとってしまえというのです。そうすれば、倉森も隠れているわけにはいかないだろう。勝元の動線は調査してあるので、出かけるときを狙えば拉致できるというのです。

やはりテロリストのレベル高くなっています。

ラストバトルは4対4のガチ勝負。倉森の相手は敵討ちにきている彩乃とジジイ。ジジイが酔剣で攻めている間に彩乃が後ろから突き刺すという、とても武士とは思えない戦い方ですが、ジジイと小娘だから仕方ない。もともと父親が大勢に殺されているから卑怯とか言われる筋合いはない。ジジイと倉森が一合した後、二人は後ろに飛びます。二の太刀を避けたいからです。しかし後ろに飛べばそこに小娘が懐剣を持って立っているわけです。ウマい作戦だ。

さて、最後は道場主の牧沢と菅井だけ残ったのですが、勝負するのか?

「いや、わしらは牧沢どのを斬る気はない。戸坂どのと綾乃が、敵の倉森と伊達を討ち取ったので、できればこのまま長屋にもどりたいのだ」
(p.265)

無駄な争いをしたくないというより、道場主を斬ったりしたら弟子の敵討ちがイヤという話です。牧沢もバカ強いのを3人も相手にしたくないので、

「おれも、おぬしたちには何の恨みもない」
(p.265)

とかいって、何もなかったことにしようという手打ちになって一件落着です。命がかかっていますからね、クールです。


俺たちの仇討-はぐれ長屋の用心棒(42)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575668780

磯次の改心-はぐれ長屋の用心棒(32)

今日も「はぐれ長屋の用心棒」シリーズから、「磯次の改心」です。「改心」といえば、思い出すのはO.ヘンリーさんの「よみがえった改心」(A Retrieved Reformation)ですね。赤塚不二夫さんがおそ松くんでパロディを描いています。本作はそんなに大それた改心ではないです。

先にネタバレしておきますが、磯次というのは長屋の住人「おきく」が襲われていたときに助けてやったということで長屋に住むことになった男です。しかしこれが実はヤラセで、磯次はスパイなのでした。

まず、長屋の住人、弥助が殺されます。

「す、簀巻きになって、堅川で揚がったんでさァ」
(p.27)

簀巻きというのは巻きずしみたいな感じですね。ヤクザの殺し方です。次に、春日屋という店の主人がやってきます。

「一昨日、娘が連れて行かれました」
(p.48)

連れていかれたのは、おすみ。借金のカタです。借金といっても、一度返した三十両をもう一度払えみたいな言い掛かりみたいな話なので、突っぱねたところ、強制的に連れていかれたわけです。

連れて行ったのは権蔵親分。貸元で賭場を開いている悪者なので、とても手が出せない。そこで長屋の用心棒に助けてくれたら二十両と話を持ち掛けた。長屋とやくざが結託したらボロ儲けできそうだが…

次は

「殺られやした! 岡っ引きの、佐吉が」
(p.75)

どうも後手後手に回っている。調べを進めていると、妙なことに気付きます。

「相撲の五兵衛とそっくりだ!」
(p.112)

以前退治した奴と手口が似ているのですね。しかし五兵衛は死罪になっています。生き返ったのか?

それにしても次から次へ先回りされるので、妙だと思った源九郎は、囮を使って誰か跡を尾けるのを見つけて尾行する、という作戦に出ます。すると、ひっかかったのは、

「あいつ、磯次だぞ」
(p.215)

もう200ページまで行ってますからね。そんなに気付かないものなのかな。そういえばこのシリーズ、源九郎とか割と尾行に気付かないことが多いです。老眼なのでしょうか。で、磯次ですが、おきくに惚れてしまって完全に源九郎側に寝返ってしまう。改心なんてキレイな話じゃない(笑)。とにかく磯次がベラベラ喋ってくれたので、一味をお縄にして御用だ、という結末です。

今回のラスボスは清水。例によって源九郎が誰何します。

清水、おぬしほどの腕がありながら、なにゆえ、金ずくで人を斬るようになった
(p.275)

清水はこう言います。

御家人の冷や飯食いでは、剣など身につけても食っていけんからな。……おぬしらも、似たようなものではないか。金ずくで、おれたちを斬ろうとしているのだからな
(p.275)

ですよね。


磯次の改心-はぐれ長屋の用心棒(32)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575666991

老剣客躍る-はぐれ長屋の用心棒(35)

今日は、はぐれ長屋のシリーズから「老剣客躍る」。35巻です。今回は女・子供が襲われているところに源九郎が出くわして助けてやるパターンです。後日お礼に来たときに、ジジイの武士が一緒にやってきます、

この老剣客の名前が青山弥太郎。昔、源九郎と同じ道場で修行した仲間で、腕が立つジジイなのです。おんなは「おさき」、子供は太助という名ですが、ミッションは「この二人を守ってくれ」です。ただ、襲って来たのが誰なのか分からない。問いただすとモゴモゴしたりして何か怪しいが、青山は知っている仲だし、依頼金の百両は捨てがたいということで、商談成立です。

後は例によってお家騒動とか利権絡みで横から出てくる悪い奴とか、ぐちゃぐちゃの世界。最後に首謀者、とはいってもハメられてしまった感もありますが、貧乏旗本の中村稲之助のボロ屋敷に乗り込んで、

中村、武士らしく腹を切れ。
(p.267)

と迫る。腹を切れば殿に話をつけて、中村の子供は助けてやるという取引です。しかも、居合の菅井が、

「腹を切る気がないなら、おれが首を落としてやる」
(p.268)

説得じゃなくて脅迫ですね。ということで腹を斬らせて一件落着です。かなり途中省略したけどまあいいや。

さて、オープニングでおさきと太助が襲われていたのは一ツ目橋なのですが、最近、ここに書く前に古地図を確認してどのあたりか調べたりしています。この橋は墨田川に繋がっている堅川という細い川にかかっていて、今は一の橋という名前になっているようです。

はぐれ長屋の茂次が五人を尾行したときには、こんな光景がでてきます。

五人は堅川沿いの通りに出た後、西にむかい、両国橋を渡った。そして、五人は柳原通りを筋違御門の方にむかったという。
(p.82)

その後、和泉橋のたもとで3人と2人に分かれてしまって尾行も大変。

黒川という武士の塒(ねぐら)を探すシーンでは、

源九郎たちは、柳原通りを経て神田川にかかる昌平橋を渡って金沢町にむかった。明神下と呼ばれる神田明神の東側の通りから右手の通りに入って間もなく、
「あれが、浜崎屋ですぜ」
(p.126)

浜崎屋というのは老舗の料理屋で、黒川はその先に住んでいるという情報を手に入れているわけです。

このあたりの地名が Google Maps で簡単に出てきてくれると助かるのですが。


老剣客躍る-はぐれ長屋の用心棒(35)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575667530

銀簪の絆-はぐれ長屋の用心棒(28)

今日は長屋シリーズに戻って「銀簪の絆」。銀のかんざしなんて、お洒落ですね。こういうアイテムは今でも流行すれば面白いと思うのですが。

今回の悪役は、

天一味の仕業らしい
(p.23)

一味といわれると何となく大物感が強化されますね。七味だと辛さの中にも風流あり、みたいな。聖天一味は大店に夜盗として忍び込み、千両箱を盗むという豪快な泥棒集団です。賊の名前の由来は浅草聖天町のようです。

そして、今回のゲストはお熊の弟です。

「舎弟の猪八です。……しばらく、長屋で厄介になるんで、挨拶に連れてきたんです」
(p.37)

猪八戒?

猪八は仕事にも行かずに、遊び歩いてるんですよ。
(p.58)

お熊が嘆いています。そこで、源九郎が猪八に説教をすることになります。源九郎は、猪八に手を見せてみろといいます。

わしは、掌を見ただけで、相手の腕のほどが分かるのだ
(p.76)

その後に、まんざら嘘でもないとか出てくるので、つまり嘘ですね。ハッタリなわけですが、老人にそういうことを言われると信じてしまいますよね。この猪八はどうも挙動が不審です。博奕で借りた金が膨れ上がっています。

七、八両が五十両にもなったのか
(p.152)

だから奨学金を借りろとあれほど…

さて、一味の親分は、普段は店の主人として暮らしているのですが、

「橋のたもとに、古着屋があるな」
「はい」
「あるじの名を知ってるかい」
久兵衛さんですが…」
(p.227)

またマドマギか。いろんな時代で仕事してるなぁ。

さて、源九郎達は、一味が三崎屋に押し込むという情報をgetしたので、罠を張ります。

天一味が三崎屋に押し入ったとき、待ち伏せて一気に襲えばいい
(p.240)

現行犯で逮捕するわけですね。

今回のラスボスはワルプルギスの魔女…ではなくて渋谷という名前です。渋いです。横雲という必殺技を持っています。一味がお縄になっているドタバタ騒ぎの時に、一人だけ外に逃げ出したのですが、なぜか外で源九郎を待っています。

「渋谷、逃げないのか」
源九郎が対峙して訊いた。
「逃げるのは、おぬしを斬ってからだ」
(p254)

無駄にカッコイイ。初手は互角で、菅井が駆け付けるのですが、源九郎のスイッチが入っているので「手出し無用」とか言って助太刀させない。とかいってるうちに捕方がわさわさと大勢駆け付けてしまうので、これでは勝負にならないとみて、渋谷はとりあえず勝負は預けたと言って一時撤退します。

源九郎達は捕まえた一味から渋谷のアジトを聞き出して、そこに向かいます。源九郎が呼びかけると渋谷が出てくる。逃げないのかと訊いたら、

「逃げる気なら、今朝のうちに江戸から出てるよ」
(p.274)

源九郎が勝負しに来るのを待っていたというのです。なかなか渋い奴です。こういうのは味方に引き入れてもいいと思うのですけどね。


銀簪の絆-はぐれ長屋の用心棒(28)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575666243

白と黒のとびら: オートマトンと形式言語をめぐる冒険

今日紹介するのはファンタジー。「白と黒のとびら: オートマトン形式言語をめぐる冒険」です。知らない人にはなんやソレというタイトルですが、知っている人は多分知っている。情報科学の分野です。

先にどういうネタが入っているかを紹介しておくと、

・正則言語と有限オートマトン
・有限オートマトンの決定性・非決定性と正則表現
・有限オートマトンと実際の機械
・文脈自由言語とプッシュダウンオートマトン
・正則言語と文脈自由言語に対する反復補題
・文脈自由文法とプッシュダウンオートマトンの透過性
・文脈自由言語の統語解析
・文脈依存言語と線形拘束オートマトンチューリングマシン
万能チューリングマシン
・対角線言語と決定不能

こんな感じ。私はこのあたり全部知っているので、コレはアレだなという感じで読めるのですが、知らない人でも読めるのだろうかと思って読んでもらったら、案外読めるみたいです。

主人公はガレット・ロンヌイ。魔法使いの弟子です。師匠の魔法使いの名前はアルドゥイン。何でも知っていて何でもできる感じのキャラです。第9章の「不毛な論争」で、校長がアルドゥインに「君の結論は正しいと分かっている」と言うのですが、

「校長、そのような判断は非常に危うい。私だって間違うことがあるし、愚か者と思われている人間であっても、正しいことを言うことがある」
(p.160)

確かに、正しいことは嘘つきが言っても正しいし、間違っていることは教授が言ったって間違いですね。しかし、日常生活では、嘘つきが言えば嘘に聞えるし、大学教授がテレビで何か言ったら正しいような気がするから不思議ですよね。お師匠様は、とことんロジカルな性格のようです。ただしこれが結構スパルタです。

部分点だと? 甘えるな。するべきことを全部していないのは、何もできていないのと同じだ。
(p.43)

全部していない、なんて表現は部分否定か全否定か分からないからよくないですけどね。

ガレットは、いろいろ仕事をやらされますが、第6章の「祝祭」では、「あべこべ祭り」というお祭りにミハという女の子を連れて行く、という仕事を命じられます。このお祭りには、普段の自分と正反対の恰好をするルールがあります。てなわけで、ミハは猫のコスプレで出てきます。

「あのね、ミハは犬が大好きなの。だから犬の恰好をしようと思ったの。でも、犬の反対は猫でしょ。だから、猫なの」
「ああ、そう」
(p.95)

ふーん、そうかにゃ、という感じですがいまいちわかりません。ガレットは下っ端なので偉い魔法使いのコスプレで出かけます。ワナみたいなのにハマってしまいますが、何とか切り抜けます

この物語の魔法ですが、どういう原理で発動できるのか謎なのですが、次のような設定があるようです。

魔法を使うというのは魔術師の仕事のほんの一部でしかない。魔術師は、知力、体力をはじめ、あらゆる能力を鍛え、役立てるものだ。
(p.121)

ま、プログラマーと同じですね。魔法を使うのに必要な能力というのも、

「お前はよく分かってないようだが、魔法を使うためだけに必要な特殊な能力というものは存在しない。しいて言うなら、体力、精神力、生命力など、人間が持つ力全体がそれにあたる。したがって、個人差はあれど、誰でも潜在的には魔法を使うことができる」
(p.139)

人間だって、信じれば空も飛べるはず。魔法そのものに関しては、次のような設定が。

魔法というのはある意味、世界の中に隠された『パターン』や『構造』を見いだし、それを精神的に操作することであると言える。古代ルル語や古代クフ語は、そのための鍵の一つだ。よって、それらの言語をよく知らなくてはならない。
(p.139)

デザインパターンとか出てきそうですが、この話はオートマトンのネタなので、まさにパターンマッチングの話と解釈すべきのようです。

第12章「解読」では暗号解読に挑みますが、こういうのが得意なユフィンさんにコツを聞くと、

まずその一、『短い文から手をつけよ』。その二、『ほんの一部でも正しい訳を見付けよ』。その三『一部でも解読できれば、残りは手元に飛び込んでくる』。
(p.209)

解読の鉄則だそうです。残りが飛び込んでくるかどうかは運ですね。

最後はガレットは後継者になるための試練に挑みます。この難問をクリアしたガレットに師匠が言う言葉がいいですね。

何もかも自分でやらなければ、自分でやったことにならない、とでも思っているのか? そういうのはな、子供の発想だ。大人はそうは考えない。どんな人間にも、力の及ばない面はある。やり遂げなくてはならない仕事が大きなものであればあるほど、一人の力ではどうしようもなくなるものだ。そのようなときは、自分に何が必要で、何が足りないかを冷静に考え、頼るべき人に適切な仕方で頼るのだ。
(p.299)

大規模プロジェクトは一人でやろうとしてもどうにもなりませんからね。


白と黒のとびら: オートマトン形式言語をめぐる冒険
川添愛 著
東京大学出版会
ISBN: 978-4130633574