Phinlodaのいつか読んだ本

実際に読んでみた本の寸評・奇評(笑)

雛の仇討ち―はぐれ長屋の用心棒

今日は、「はぐれ長屋の用心棒」から11作目、「雛の仇討ち」です。

このシリーズ、1冊の分量がドラマ向けで、昔、銭形平次水戸黄門を放送していたように、毎週放送すれば結構見てくれる人がいるような気がします。私は適当に順不同で読んでいるのでアレですが、毎回「正義は勝つ」的なお約束的なオチになっているし、今回の話は志乃という美少女(?)が親の仇討ちをする話、途中で敵に捕まってしまうのですが、マロリーシリーズだとこういう場面は簡単に殺されてしまうような気がしますね。

今回は、居合の菅井が芸を見せて商売しているところに、志乃と武士がやってくる、というシーンから始まります。

この武士と連れらしい十歳ほどと思われる娘が並んで、人垣の隅から菅井に目をむけていたのを知っていた。
(p.15)

武士の名は井森。志乃の叔父にあたります。つまり、志乃の親の仇は、井森の兄の仇ということになります。ということで、二人で仇討ちをすることになるのですが、敵は3人。一人ずつ片付けていくことになります。

最初の相手は茂山。居合の達人です。井森も居合をつかうので、居合対居合の勝負なのですが、技は互角。一度斬り合った後で、

そのときだった、つ、つ、つ、と志乃が引き込まれるように前に出た。何かに憑かれたような目をしている。
(.p.142)

これを見た茂山が志乃を切ろうとするのですが、それを菅井が抜き打ちで阻止します。体制が崩れたところを、

その一瞬の隙を衝いて、井森が斬り込んだ。
(p.142)

これが致命傷で肩から胸までザックリと斬れていて、勝負はあったわけですが、

「いまだ、志乃!」

セーラームーンですか。井森は実はタキシード仮面?

ま、親の仇なので志乃にトドメを刺させたいというわけです。

というのがあと2回あるわけですね。そこでヘンなことがあると大変ですが、だいたいお約束通りに話が進みます。そういう所もお茶の間ドラマ向きだと思うわけです。アニメ化でもいいのか。昭和の時代なら確実にドラマになっていたと思います。

2人目の敵の刀根山は面倒なので端折って(笑)、3人目の敵ですが、磯辺は誘き出して討ち取ろうとするのですが、途中、奥州街道の粕壁宿で一泊するシーンがあります。

>千住から粕壁宿まで六里三十町。一日の旅程としてはすくないが、旅の初日としてはちょうどよいかもしれない。
(p.272)

いまの埼玉県春日部市のところになります。昔の人は千住から春日部まで1日で歩いたんですね。

 

雛の仇討ち―はぐれ長屋の用心棒
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575663082

かのこちゃんとマドレーヌ夫人

今日の本は万城目学さんの「かのこちゃんとマドレーヌ夫人」です。このタイトルだと何が何だか分かりませんが、かのこちゃんというのは小学一年生で、

マドレーヌ夫人は猫である。
(p.11)

だそうです。読者層は小学生高学年あたりを想定しているのでしょうか、ジュニア小説です。

人間の子どもは、学校に行くと急に知恵がつくみたいだからね。
(p.17)

学校はそのために行くのですからね。知恵がつく、という言い方がいいです。

ちなみに、かのこという名前は「鹿の子」のかのこで、名前を付けるときにかのこちゃんの父親が鹿に「かのこという名前にしろ」と言われたので「かのこ」にしたそうです。流石は万城目さんですね、鹿語が分かるのでしょう。あをによし。猫又なんか出てくる所も何か和風でいい感じです。

かのこちゃんは難しい言葉に興味があって、それ繋がりで、すずちゃんという友達ができます。話の中では「刎頚の友」という言葉がよく出てきます。小学生の使う言葉じゃないのですが、なぜか気に入ったようです。ていうか、

「どういう意味?」
「とても仲のいい友達、という意味だよ」
「最初から〝仲のいい友達〟って使ったら駄目なの?」
「別に構わないけど、あえて難しい言葉を使ったほうが格好よかったり、言いたいことがよく伝わったりすることもあるんだよ」
(p.41)

そうでないこともありますけどね。ということで、かのこちゃんは「ふんけー」という言葉が気に入ったのですが、すずちゃんは、こんなことを叫びます。

「わたしも立ったのトイレで。ウンコ柱!」
(p.70)

あまり縁起がいい感じはしませんね。それなに、というのはこの本を読めば分かりますが、分からなくていいと思います。ヒントは、茶柱と関係あります。

茶柱といえば、かのこちゃん、すずちゃんをお茶会に誘うシーンがあります。本格的なお茶会ではないですが、茶室があったので、なぜか武士のような言葉でお茶会をします。

「人間のやることは、何もかも変わってるよ」
(>p.90)

これはマドレーヌ夫人の主人の玄三郎の言葉。ちなみに玄三郎はイヌです。なぜ猫の主人がイヌなのか、あまり考えない方がいいです。

お祭りの夜店のシーンで。

二人はしばらく呆気に取られた様子で、手元の細長いものを見つめていたが、口につけて息を吹き込むと、笛の音とともに、先端のかたつむりのように巻かれた紙が勢いよく伸びた。
(p.182)

これは吹き戻しですね。


かのこちゃんとマドレーヌ夫人
万城目 学 著
ちくまプリマー新書
ISBN: 978-4480688262

つぶさにミルフィーユ

今日は、森 博嗣さんの「つぶさにミルフィーユ」。例によって例のごとくのエッセイ集です。以前、何を紹介しましたっけ? ま、いいか。

あまり気にしないで気になったところだけちょろちょろと紹介してみます。まず本気出さない戦略。

本気は出さない、という戦略もありえる。
(p.45)

ありえるどころか、これ日常茶飯事ですよね。サッカーの試合とか。時間つぶしのパス回し…ってあれは本気でやってるのか。私は100%以上で仕事したのって数回しか記憶にないですよ、いや、記憶にございません。もう忘れました。本気でやると超疲れますからね、本気で1日やって2日ぼんやりするより、80%で毎日コツコツやった方がよほど効率がいい。そういう世界もあります。

まあでも、ここで言ってる本気というのは、「おまえ、本気を出さないって本気か?」「うん、本気だ」「マジかよ」みたいな感じかな。

小節を読む人間が、日本には千人に一人くらいしかいないし、
(p.72)

これって本当なんですか?

いくら何でも少なすぎるような気がするのですが、とある一冊を読む人間が、という意味…いやいや、

ある特定の作品になると、何万人に一人くらいの確率になる
(p.72)

よく分からんですね。私の周囲の人達は大抵、小説を読んでいますけど、それって超絶珍しい環境なのかもしれません。それにしても百万部売れる小説とか、千人に1人しか読んでないのなら、日本には人間が10億人いるんですよね。いやまて、もしかして森さんの小説をって意味ですか。

十二といえば、十二支と十二単くらいしか思いつかない
(p.79)

よく十二単を思いついたな、と思います。もちろん時間の話はこの少し前に出てくるので、見落としてはいません。ただ、日本語には「十二分」(じゅうにぶん)という言葉がありますよね。私はそちらがまず頭に浮かびました。120%という感性が宇宙戦艦ヤマトみたいでナイスなのです。あと冠位十二階とかどうよ。十二支まで来たのなら十二使徒とか。

「予定どおり粛々と進めることについて、もう少し語ろう。」で、作業に没頭しているときにこんな感じだといいます。

この「没頭」が面白いのである。
(p.92)

これはよく分かるような気がします。プログラムを修正するときに、そのような作業がよくあります。

森さんは、英語が苦手だったけど英語は読める、想像できるから、といいます。

ぼんやりとこんな意味だったなと思っているがままの方が英語がわかる。
(p.95)

イメージというか、対応する日本語じゃなくてぼんやりを関連付けるというのがミソなのだと思います。先日、Yahoo!知恵袋にあった質問に、This questionn is the () difficult of all. という穴埋め問題があって、正解は most なのですが、best はなぜ間違いなのか、というのがありました。この人は best を「いちばん」という意味だと思っているわけです。その「いちばん」とはちょっと何かが違うようですが。

知っていることと、わかっていることは違う。
(p.95)

ま、確かにプログラミングを知っていてもわかっていない人がいますね。あと、分かっていないのに開発できる人がいます。これは、わんさかいます。

最近では、TVもネットも、無料の情報にほぼ宣伝が紛れ込んでいる。
(p.119)

結構昔からそうだったような気がしますけど、ステマ、ていうか、どことはいいませんがパソコン通信は有料サービスでしたが宣伝が紛れていたような…

デビュー以来二十数年間、ほぼ毎日書いてきた。
(p.146)

ブログを毎日書いているという話です。毎日書いていると、毎日書いているという話を書きたくなるようです。わかります。ところで一体そのブログはどこにあるのだ、と思って探してみるとこれが案外見つかりません。20分ほど探して発見したのですが、興味のある人は探してみてください。探すだけでも脳は活性化します。見たところ、本当に毎日投稿されているのですが、毎日 07:00 にきれいに投稿しているというあたりに何かピンときたら110番的なもやっとしたものがあります。

日記を書くことは、とても簡単だ。
(p.146)

という人もいるのですが、私にはとても難しいのです。

ついこのまえまで、企業戦士はもて囃されていた。滋養強壮剤を飲んで戦いに臨んでいた。
(p.163)

セーラー戦士というのを思い出しましたが、何でもありません。いつの間にか、残業は悪、残業は禁止という時代になっているようです。残業代が出なくなるので、自動的に、貯蓄0の世帯が増えているとか。日本はどこに向かっているのでしょう。

仮にも経営者がこんなことを言うのもなんですが、理想的には、同じことをだらだらと楽にやって残業代ももらえる方がありがたいのではないか、とか想像してしまうのです。何か、最近の企業は、残業は禁止、でも残業前と同じ量の仕事はこなせ、という厳命のようですし、そんなことしたら無残業過労死増加という新たなフェーズに突入しそうな気がします。

ウェブページでよく見かける虫眼鏡のマーク
(p172)

UIの専門家としてこれは恥ずかしい話なのですが、このアイコンが虫眼鏡だということに長年気付きませんでした。言ってよ言ってよ…。

写真を示すマークは、たいていカメラの絵なのだが、
(p.173)

こちらはデジカメという代物があるので大丈夫でしょう。デジカメがカメラの形をしなくなったら危険ですが。

つながりたい人が多いのは知っているが、つながったらなにか良いことがあるのだろうか。そこが想像できない。僕はつながっていない方が得だと考えている。つながることは面倒だし煩いし不自由だ。
(p.175)

私は森さんと同意見なのですが、つながったら良いことがあるというのは、褒めてもらえることです。つまり、ナイスを押してもらえるとか、それが今の若い人にはメリットなんです。それに、最近の若い人はウサギと同じで、つながっていないと死んでしまうのです。

スポーツ選手が故郷に凱旋するシーンをニュースで流しているけれど、あれもわからない。
(p.175)

これって古代ローマ時代の名残じゃないのかな。凱旋ってやつでしょ。


つぶさにミルフィーユ The cream of the notes 6
森 博嗣 著
講談社文庫
ISBN: 978-4062937702

子盗ろ

今日は「はぐれ長屋の用心棒」シリーズから「子盗ろ」。ことろ、というのは子供の遊びのようですが、よく分かりません。ざっくり概略を紹介しますと、今回は、人さらいと対決する話です。

このシリーズ、主人公は源九郎、というのを何度か紹介していますが、こんな感じです。

源九郎は鏡新明智流の達者だった。十一歳のとき、日本橋茅場町にあった桃井春蔵士学館に入門し、めきめきと腕を上げた。
(p.60)

その後転々として、はぐれ長屋に至るわけです。ただし転々とした間にいろんな技を身に付けています。年を取って、技を繰り出すとすぐに疲れてぜぇぜぇ言うような体力になっています。ウルトラマンみたいなものです。

この作品は、江戸の風景がよく出てきます。江戸の話なので当然ではありますが、これは武士を尾行するシーンです。

羽生は、神田川にかかる昌平橋を渡り神田へ出た。さらに、日本橋の方へ足早に歩いていく。
(略)
羽生は、芝口橋(新橋)を渡ってしばらく歩くと、右手の町家の先に増上寺の堂塔が見えてきた。浜松町である。
(pp.188-189)

羽生というのが謎の武士。増上寺というのは大門のところですが、昌平橋から浜松町って4~5kmありませんかね、結構歩いてますね。

このシリーズ、サラっと読み切れる軽さですが、ちょこちょこと江戸の風景が織り込まれています。今の東京はテクノポリスなのでその片鱗もないのかもしれませんが、何かタイムスリップしたいような気分になれます。

風のなかに魚の臭いがただよっていた。
わたった先が日本橋本船町。日本橋川の東側にあたるこの辺りが、岸沿いに魚屋が軒を連ねる魚河岸で、本船町、隣町の安針町、長浜町と生魚をあつかう店や塩乾物をあつかう店などがたて込んでいる。
(p.254)

このような光景は後世に残すべきだと思うのですが、東京は空襲で焼けてしまいましたし、ちょっと無理がありますか。江戸というのは火事で何度も焼けて復活した不死身の町なのですが、元通りになるわけではないようです。

今回の話は、最後に殺し屋と対決するときに、こんな会話があります。

「うぬの名は」
源九郎が誰何した。小室兄弟としか分かっていなかった。
「小室甚之助」
「わしは、華町源九郎」
「華町、勝負!」
(p.296)

日本人は形から入るといいますが、こういうプロトコル、好きなんですね。さっさと攻撃すればいいのに、とか思うのですが。

 

子盗ろ―はぐれ長屋の用心棒
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575662122

深川袖しぐれ

今日の本は、鳥羽亮さんの、はぐれ長屋の用心棒シリーズから、「深川袖しぐれ」です。このあたり、図書館で適当に手あたり次第に借りているので、順番は貸し出されていないのを手に取る結果、適当です。

茂次は研師、つまり刃物を研ぐ職人です。それがひょんなことで幼馴染のお梅さんを助けることになります。お梅は父親の博打の借金のカタに取られようとしていたのです。結局お梅はさらわれてしまい、それを取り戻す、というのがストーリーです。

悪役は相撲の五平。

五平は抜け目のない男でな。表向き賭場は、右腕の与三次という男に仕切らせている。そっくり挙げても、五平はたまたま客で来ていただけだと言い張るだろう。
(p.78)

悪役の親分はそんなものでしょう。この五平が自ら警告に来ます。

「伝兵衛長屋の華町源九郎さまでございましょう」
(p.106)

ふてぶてしいものです。危ない男を三人連れてきていますが、この三人が凄腕の殺し屋ということになっています。

江戸の街並みの描写もわんさか出てきますが、

特に、深川七場所と呼ばれた仲町、土橋、新地、石場、表櫓、裾継、佃新地には、遊女を置いた女郎屋や子供屋が立ち並び大勢の客を集めていた。
(p.94)

子供屋というのは見慣れない言葉だと思いますが、遊女を置いていた家のことです。遊女は子供屋では仕事をせず、呼ばれてから茶屋に向かって客と会うのです。お梅はそういう所に連れていかれたわけで、もちろん逃げ出せませんし、借金のカタで連れ出されているので逃げても連れ戻されるだけです。

殺し屋が3人も相手なので壮絶なバトルになるわけですが、猛烈な戦闘シーンはなかなかなものです。

 

深川袖しぐれ―はぐれ長屋の用心棒
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575662245

秋月記

今日の本は秋月記(あきづきき)。福岡藩支藩である秋月藩という小さな藩の話。なかなか重厚な小説で、昨日紹介したのが娯楽系の時代小説とすれば、こちらは本格派。じっくり読んだ上で数回読み返したくなる。体感的には、読んでいて、同じ文字数でも3倍時間がかかる感じがした。

物語は老いた主人公の間小四郎(余楽斎)が失脚するシーンから始まる。そして子供の頃の話から失脚するまでの長い話が始まるわけだ。子供の頃の小四郎は臆病者で、犬に襲われたときに妹を置いて逃げてしまい、妹がそれが元で死んでしまったと思い込んでいる。実際はいろんな不幸が重なって亡くなっているのだが。

弱虫では武士として生きていけないので道場に通い始めると、そこではいわゆるいじめのようなことも体験する。ただ、道場の師範である藤田伝助は、そこに見どころがあるという。

臆病者だとあきらめてしまえ。怖いがゆえに夢中で剣を振るうのだ。
(p.25)

柔術の達人、藤蔵にはこんなことを言われる。

「おのれが弱いことを知っておる者はいつか強くなれる。お主がわしより臆病ならわしより強くなるだろう」
(p.53)

弱さを知っていればこそ強くなれるというのは深い。確かに、強いと思っている人ほどうっかり無茶をしてあっけなく敗れてしまうことはある。弱い人ほど、危ないと思ったら逃げるから、敗れることはない。それはある意味強いということかもしれない。

秋月藩は小藩で、とにかく金がない。そこにつけ込んで、何とかして乗っ取ってやろうと福岡藩があの手この手をまわしてくる。それを何とかギリギリの所でクリアしていく様子が凄い。クリアすると次の敵が現われる。やっと全部片づけたと思うと、

目の前の敵がいなくなれば、味方の中に敵ができる。
(p.297)

共通の敵がいなくなると、昨日の友は今日の敵、というわけだ。くわばらくわばら。

それにしても、とにかく金がない。借金しまくっている。大坂商人からも借りていて、どうも簡単に返せそうにないから、しばらく待ってくれと交渉しに行く。これも重い役目を任ぜられたというよりは、失敗させて失脚させるのが目的のような気がしてくる。後半で出てくる大坂の芸妓、七與の言葉が凄い。

金というものは、雨のように天から降りまへん。泥の中に落ちてるもんだす。手を汚さんでとることはできまへん。
(p.310)

この七與、小四郎は他の商人に、蝮に気を付けろと警告を受けていた。その蝮である。毒がハンパなくて、最後はそれが原因で大変なことになるが、ところが小四郎はそれに動じない。いつの間にか禅の極意まで身に付けたのかは、この小説からは分からないが、こんな小話も出てくる。

「ひとは美しい風景を見ると心が落ち着く。なぜなのかわかるか」
(p.342)

これは難問だが、但しこの後に答が書いてある。個人的にはちょっと違和感が残るが、まあそれはどうでもいいことだろう。

このストーリーで、小四郎は出世するが、出世するというのは重い責任を背負うということ。小四郎の父は昔、郡奉行という役に就いていた。小四郎が同じく郡奉行に任じられた時、それを思い出して父にアドバイスを求める。すると、領内を観察することが大事だという。

「そなたにはまだわからぬかもしれぬが、ひとにとって、存外に大事なことなのだ」
(p.212)

観察といっても、探偵が捜査するようなものではなくて、

「野の風に吹かれ、河の水に手をひたし、山野の風物を愛で、作物の実りを楽しむことができる」
(p.212)

それが大事だというのだ。これは案外、今の世でも言えるようなことのように思える。何気ないところを観察していると、猛烈に重要なことが見えてくることがあるのだ。こういう所が何か悟りの境地に至るヒントなのだろうか。

悟りといえば、中盤まで悪役として出てくる宮崎織部が圧巻である。物語中盤で失脚して流刑になってしまうが、最後まで読み終えたところで、小四郎と織部が重ね合って見えてくる。奥のある構成なのだ。

最後に、長崎の石工が秋月で作った石橋が崩落してしまうシーンで石工が語る言葉を紹介したい。

「長崎では一度も橋が崩れるなどということはありませんでした。それだけに皆自信がありすぎたのです。ちょっとした手抜きぐらいで崩れることはないだろうと思ってしまいました」
(p.133-134)

自信がありすぎる、というのが面白い。石橋を叩いて渡るという言葉はあるが。


秋月記
葉室 麟 著
角川文庫
ISBN: 978-4041000670

おしかけた姫君

今日は鳥羽亮さんの「はぐれ長屋の用心棒」シリーズから「おしかけた姫君」です。シリーズ21作目ということです。

主人公は華町源九郎。普段は長屋で傘張りの内職をして貧乏生活なのですが、実は。

源九郎は鏡新明智流の達人だった。
(p.35)

じゃあ向かうところ敵なしかというと、世の中には強いのがいくらでもいる訳で、たまには簡単に勝たせてくれない相手も出てくるし、もう年なのでスタミナに問題があります。しかし経験値は高いのでいろんなノウハウを身に付けている。

多くの修羅場をくぐってきた源九郎は、利のない勝負から逃げることも剣の腕のうちだと思っていた。
(p.130)

宮本武蔵柳生宗矩の境地ですね。極めてます。とはいっても、やはりかなりの凄腕なので、腕の立つ長屋の仲間と組んで、用心棒的な業務活動をしているわけです。今回の依頼者はこんなことを言う。

そこもとたちは、これまでに旗本、御家人はおろか、大名家の騒動にも手を貸し、うまく収めているとのこと。
(p.84)

まあ悪くいえばヤクザみたいな気がしないでもないですが、よく言えば警備の人達。SPですか。前半では、篠田屋という呉服屋にタカリにきた牢人を退治します。水をかけられたと難癖をつけて五十両払えば許してやると恐喝してくる。そこで源九郎達の出番となるわけですが、コテンパンにやっつけておいて、礼金として五十両受け取る。もし裏で話が付いていたらいい商売だ(笑)。

ま、同じ五十両といっても、たかりの方はそれでは済まないわけですがね。一度金を払ったらどんどんつけあがる。

この長屋仲間に島田藤四郎という若侍がいます。そこに振袖を着た若い娘が駆け込んできた。というのが本作品のストーリーになります。名前は萩江。これを誘拐しようと企む奴らがいるので、警護して阻止して欲しい、という依頼を受けるわけです。基本的に格闘系の時代小説なので面白いです。サラッと読めます。


おしかけた姫君-はぐれ長屋の用心棒(21)
鳥羽 亮 著
双葉文庫
ISBN: 978-4575664935